田尾城(たお)
 別称  : 多尾城、白地山城
 分類  : 山城
 築城者: 小笠原頼清か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR土讃線阿波川口駅徒歩60分


       <沿革>
           現地説明板によれば、建武四/延元二年(1337)に北朝方へ降った池田城の小笠原義盛の
          長男・頼清は、なおも南朝方として脇屋義助と連携し、田尾城を築いて抵抗を続けたとされる。
          義盛は阿波守護・小笠原長房の曽孫、頼清は大西氏の祖ともいわれるが、史料上の裏付けは
          ない。他方で、池田城の別称をもつ東山城には、義助の兄・新田義貞の一族が拠っていたとも
          いわれ、蓋然性は十分にあるとみられる。
           天正五年(1577)、土佐の長宗我部元親と和議を結んでいた白地城主大西覚養は、これを
          破棄して長宗我部氏との対決に備え、田尾城を拡張・改修した。城主には覚養の弟で13歳の
          大西頼信が据えられ、家臣・寺野源左衛門武次と300の兵が付けられた。
           同年、元親率いる3千の大軍が攻め寄せたが、城兵は要害を恃んでよく戦い、長宗我部勢に
          多くの死傷者を出してその日の戦闘は終了した。だが、力攻めは容易でないと判断した元親が
          夜陰に乗じて山に火を放つと、わずか2日の攻防で落城した。その後の田尾城については不明
          である。


       <手記>
           田尾城は銅山川やその支流の黒川谷川に囲まれた標高462mの山上にあり、川沿いからの
          比高は300mほどにも達します。ですが、城域手前の峠まで道路が通じており、乗用車1台分の
          駐車スペースもあるため、有難いことに訪城は外観ほど難しくありません。なぜこんなところに
          まで道路が付設されているのかといえば、城山の両サイドにはこの地方特有の山肌にへばり
          付くような集落があるからです。
           田尾城は北城と南城の2つの峰に跨っており、南城は大西氏が増設した箇所で、そのときに
          城の正面が北から南へ移されたとされています。南城はほぼ単郭で、円い曲輪と土塁が良好
          に残っています。また、登山口と曲輪の中間付近に1条、そして背後に3条の堀切が穿たれて
          おり、とくに3条堀切の方は長い竪堀が連なるなど規模が大きく、城内の主な見どころの1つと
          いえるでしょう。
           一方の北城は、土壇状の切岸や帯曲輪、前方にごく浅い堀切状地形が認められるものの、
          全体的に曲輪形成は曖昧です。南城側が岩尾根であるのに対し、北東尾根は緩やかな自然
          地形が続き、こちらからの攻撃にはたいへん脆弱であると言わざるを得ません。この対照性に
          ついては、伝承の通り北城が南北朝の城砦で、南城が対長宗我部に特化した増設箇所である
          とみて、なんら齟齬をきたさないように思われます。
           峠道を挟んだ南側には、長宗我部元親の最前線指揮所と伝えられる場所があります。南城を
          直上に望む峰先で、一歩間違えれば流れ弾や決死の突撃で大将が命を落としかねないような
          距離にあり、個人的には違和感を覚える近さでした。もしこんな至近距離で指揮を執っていたと
          すると、なんとしても逸早く田尾城を落とし、阿波攻めの橋頭堡としたいという緊迫感が伝わって
          くるように思います。

           
 東麓の銅山川沿いから田尾城跡を見上げる。
南西中腹の集落から田尾城跡を望む。 
 峠の登山口。
登山途中のようす。 
 南尾根中途の堀切。
同上。 
 南城の虎口状地形。
南城のようす。 
 同じく曲輪と土塁。
南城背後1条目の堀切。 
 同堀切から続く竪堀。
同竪堀を下から見上げる。 
 2条目の堀切。
同堀切と外側の土塁。 
 同堀切と土橋。
3条目の堀切。 
 同上。 
  北城南側の岩尾根。 
 北城の土壇状地形。
同上。 
 北城の帯曲輪と切岸。
北城からの眺望。 
 北城北側の堀切状地形。
堀切状地形から北東へ続く尾根。 
自然地形に見えます。 
 長宗我部元親・最前線指揮所。


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