山下城(やました)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 山下氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR内房線館山駅からバスに乗り、
      「安房大倉」下車徒歩10分


       <沿革>
           安房の有力国人である神余氏の家臣山下氏の居城とされる。山下氏の出自などについては
          不明である。
           応永二十四年(1417)、山下定兼は主君神余景貞を攻め殺し、神余郡と呼ばれていた景貞の
          所領を奪って山下郡と改名した。しかし、神余氏と並ぶ勢力の国人である安西氏と丸氏は定兼
          を認めず、嘉吉元年(1441)に攻め滅ぼした。一方で、定兼を滅ぼしたのは白浜城主里見氏と
          する説もある。このころの安房の情勢については軍記物に拠る部分も多く、いずれの説も確証
          はない。
           ただ、定兼が神余氏を下克上したものの、1代で攻め滅ぼされたのは間違いないとみられる。
          しかし、主家簒奪後も山下城を使い続けたのかどうかはまったくの不明である。


       <手記>
           山下城は、神余氏の居城である神余城の北西わずか500mほどに位置する山城です。この
          近さから鑑みて、山下氏は神余氏の一族とも考えられますが、推測の域を出ません。城下まで
          の車道は細いのですが、北東麓の十字路は駐車するのに十分なスペースがあり、大きな車で
          なければ迷惑にはならないでしょう。
           十字路脇から城山を上がる切通し道があり、脇には帯曲輪状に2段ほどの墓地があります。
          しかしながら、ここも城域に含まれるかどうかは造成が激しいため分かりません。墓地を横目に
          山腹を進むと、やがて尾根筋の道になり、3〜4段の腰曲輪群が現れます。
           腰曲輪群を登りきると、南北に帯曲輪を巡らした主郭となります。主郭はかなりの広さがあり、
          かつては耕地だったと思われますが、今では矢竹による藪化が進行中です。面積的には、ここ
          に居館が営まれていた可能性も、充分に考えられるでしょう。
           主郭の奥には、横一文字の2段の切岸があります。切岸の間は狭くはないものの広くもなく、
          上段の切岸の上も曲輪形成されている様子はみられません。城内で一番といっていいくらいの
          造作で、並々ならぬ工事量と思われるのですが、一体なんのための切岸なのか、正直なところ
          皆目見当がつきません。
           さらにミステリアスなのは切岸の先で、あとは頂上を見上げるばかりなのですが、途中の斜面
          はまったくの自然地形となっています。一方で山頂には、こちらは明確に人工と分かる塚状地形
          があり、普通に考えれば物見台か狼煙台と思われます。
           全体として、主家の神余城よりも規模は大きく、下克上の後に改修工事が行われた可能性は
          あるでしょう。とはいえ、中途半端の感は否めず、山下氏が攻め滅ぼされた時点で廃城となった
          ものと推測されます。

           
 登城口。
登ってすぐの墓地。城域かどうかは分かりません。 
 尾根筋の虎口ないし腰曲輪切岸。
腰曲輪群を見上げる。 
 腰曲輪のようす、その1。
その2。 
 主郭切岸と南辺の帯曲輪。
主郭のようす。 
 同上。
主郭から北辺の帯曲輪を見下ろす。 
 主郭背後1段目の横一文字切岸。
同じく2段目。 
 山頂の塚状地形。


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