神余城(かなまり)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 神余氏
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR内房線館山駅からバスに乗り、
      「神余小学校前」下車徒歩5分


       <沿革>
           安房の有力国人神余氏の居城とされる。神余氏は、平安時代末期には既に安西氏や丸氏と
          並ぶ在地勢力として根を張っていたとされるが、その出自は定かでない。一説には、神戸郷の
          余戸に由来するとされる(『神余百年史』)。神余の地名や城名は神余氏が住したことにちなむ
          もので、もとは平田といったと伝わる。室町時代には、神余氏の支配領域をして神余郡と呼ぶ
          ようになった。
           応永二十四年(1417)、神余景貞は重臣山下定兼によって攻め滅ぼされ、神余郡は山下郡
          と改められたとされる。定兼の居城は神余城北西の山下城であったとされ、下克上を果たした
          後の神余城については不明である。なお、越後上杉家臣の三条城主神余親綱は安房神余氏
          の後裔とされるが、詳しい関係は定かでない。


       <手記>
           神余小学校の東に突き出た舌状の小丘が神余城跡です。西麓の墓地脇から登り道があり、
          途中の右手にけだるそうなポーズをした観音様(?)がおられるので、その脇の藪道を上がる
          と主郭に至ります。曲がらずに直進すると、主郭先端側下の墓地になりますが、あるいはここも
          腰曲輪だったものと思われます。
           主郭は藪化しているものの、土塁で囲まれている様子がうかがえます。裏手を下りると堀切
          があり、城内最後尾とみられます。堀切は幅があるものの、全体として見れば至って小城で、
          時代と神余氏の勢力圏を考えればこんなものかなという感じです。
           逆にいうと、定兼は嘉吉元年(1441)に安西氏や丸氏によって、あるいはその後に入国した
          安房里見氏に滅ぼされたといわれ、遅くとも15世紀後半には廃城となったものと推測されます。

           
 主郭前方下の墓地。腰曲輪跡か。
主郭への登山口におわすアンニュイな観音像(?)。 
 主郭のようす。
主郭背後の土塁。 
 同上。
土塁上のようす。 
 土塁背後のようす。
最後尾とみられる堀切。 
 同上。


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