矢野城(やの)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 矢野国村か
 遺構  : 堀、曲輪
 交通  : JR徳島駅からバスに乗り、
      「八倉比売口」下車徒歩15分


       <沿革>
           三好氏重臣・矢野駿河守国村によって、永禄年間(1558〜70)に築かれたと伝わる。矢野氏は
          藤姓とされるが、詳しい出自は定かでない。国村は矢上城主矢野伯耆守虎村の子で、元亀二年
          (1571)には讃岐国引田城主を任され、三好氏の主な合戦に名を連ねるなど重用された。
           天正七年(1579)、国村ら三好家重臣は長宗我部元親に寝返った三好康俊・武田信顕の謀略
          によって誘い出され、脇城下で銃撃されて戦死した(脇城外の戦い)。虎村は同十年(1582)の
          中富川の戦いで討ち死にしたが、矢野城の廃城時期は不明である。


       <手記>
           矢野城は気延山末端の小峰に築かれ、周辺には国分寺や国分尼寺跡があります。車であれば
          市立考古資料館の駐車場が利用でき、北麓から郭内の城山神社へ道が通じています。付け根側
          には堀切や横堀が見られますが、郭内には古墳群があるものの気にされている感じはなく、曲輪
          形成は中途半端です。
           神社の周りには城址碑のほか、三好氏が足利義栄を将軍に擁立した記念碑や農兵活躍史なる
          碑、また三好三人衆と松永久秀の戦いの最中に休戦がもたれたという「日本最初のクリスマス」の
          碑など、石碑がにぎやかに並んでいますが、城跡としてはあと前方に腰曲輪が付属する程度です。
          全体の印象としては、斜陽の三好家を支えた矢野氏の事跡に比べて、あまりにも狭小かつ貧相な
          小城といえるでしょう。
           そもそも周辺の地名を矢野といい、矢野氏はこの地に古くから根差した土豪であったと推察され
          ます。であるならば、矢野城は最後の当主である国村ではなく、虎村より前に既に築かれており、
          虎村が矢上城主に取り立てられて以降はほとんど顧みられなかったと考える方が、自然なように
          思われます。

           
 北から矢野城跡を望む。
登城口。 
 背後の堀。
そこから続く横堀。 
 主郭の切岸。
郭内の古墳群。 
 城山神社。
境内の城址碑。 
 腰曲輪跡。
同上。 


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