坂戸城(さかど)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 新田氏か
 遺構  : 曲輪、石垣、土塁、堀、櫓台、虎口、水の手
 交通  : JR上越線/北越急行ほくほく線
      六日町駅徒歩90分


       <沿革>
           南北朝時代に入る前後ごろに、上田荘に勢力をもっていた新田氏一族が築いたとも考えられて
          いるが、確証はない。暦応四/興国二年(1341)に上杉憲顕が北朝から越後守護に任じられると、
          守護代として上杉家臣・長尾景忠が入国し、新田氏ら南朝勢力を駆逐して坂戸城を拠点としたと
          伝えられる。
           景忠は後に上野守護代に転じ、越後長尾氏は景忠の兄弟ないし一族とされる長尾景恒が引き
          継いだ。景恒の子のうち、長男の長景が上田長尾家の祖となり、坂戸城はその居城となった。
           上田長尾家は独立志向が強く、春日山城の守護代長尾家に対しては従属と離反を繰り返して
          いた。守護代長尾為景の娘・仙洞院(仙桃院)を娶っていた上田長尾政景も、為景の嫡子晴景が
          弟・景虎への家督譲渡を強いられると、これを不服として天文十九年(1550)に謀叛を起こした。
          しかし、翌二十年(1551)に坂戸城を景虎に囲まれると、政景は降伏・臣従した。その後は景虎の
          一門重臣として活躍したが、永禄七年(1564)7月5日に坂戸城の近くの野尻池で、琵琶島城主
          宇佐美定満と舟遊び中に溺死した。
           政景の子・喜平次顕景は、上杉家を継承して上杉謙信となった景虎の養子として春日山城に
          入ったため、坂戸城には番将が置かれたと推測される。天正六年(1578)三月に謙信が没すると、
          同じく養子となっていた北条氏康の七男・景虎との間で、家督を巡り御館の乱が勃発した。同年
          六月に、景勝は景虎の実家北条家の介入に備えて荒戸城を築かせたが、同九月に景虎の実兄
          である北条氏照・氏邦が軍を率いて越後に入ると、荒戸城と樺沢城が攻め落とされた。
           北条勢は続いて坂戸城の攻略にかかったが、抜くことができないままに冬が近づき、樺沢城に
          留守居の将兵を置いて撤退した。この間に、武田勝頼と和睦するなど形勢を盛り返した景勝は、
          翌七年(1579)二月に援軍の望めない樺沢城と荒戸城を奪回し、その翌月には景虎を鮫ヶ尾城
          にて自害に追い込んだ。景勝が上杉氏の家督を継ぐと、坂戸城には樋口氏や栗林氏、登坂氏ら
          上田衆が引き続き配されたとみられる。
           慶長三年(1598)に上杉家が会津へ転封となると、代わって堀秀治が越後に入国し、堀家重臣
          堀直寄が2万石で上田領主となった。直寄によって、山麓の居館部や山頂の実城などに改修が
          加えられたとされる。
           慶長十一年(1606)、蔵王堂城主堀鶴千代が早世すると、直寄はその遺領3万石を与えられて
          合計5万石を領した。これを機に長岡への築城・移転を計画したが、兄直清や主君である秀治の
          子忠俊と対立し、同十五年(1610)に忠俊と直清は改易、直寄も飯山藩4万石に減転封となった。
          ここに、南北朝時代から続く坂戸城は廃城となった。


       <手記>
           六日町市街から魚野川を挟んだ正面に聳える、標高633mの坂戸山が坂戸城跡です。比高も
          470mほどあり、いかにも南北朝時代に築かれた山城といった高所にあります。一般的な山城の
          3〜4つ分を登るため、とくに飲み物はしっかりと用意したほうがよいでしょう。私は登山前に車内
          で飲み溜めておけば十分だろうと慢心した結果、やっとの思いで山頂に着くころには脱水気味に
          なって足が小さく痙攣してしまいました。
           山麓の鳥坂神社から登山道が整備されていて、手前には堀家時代のものとみられる内堀跡も
          残っています。今では城跡という以上に市民の格好のハイキングコースとなっているようで、道は
          整っているものの一切のショートカットができず、長丁場の登山が精神的にこたえます笑
           山麓には石垣で囲まれた居館跡がありますが、ちょうどその手前に数匹の猿が陣取っていて、
          近づくことができませんでした。居館の南脇には屈曲した堀底道状地形があり、その奥に「御居間
          屋敷跡」と書かれた標識がありますが、こちらから登るのはお勧めしません。居館部南側の薬師
          尾根のルートからだと、ちょい寄り的に見学できます。そもそも坂戸城へは居館跡から谷筋に登る
          城坂ルートと薬師尾根ルートの大きく2コースがありますが、薬師尾根は人間には不向きな階段が
          続くため、前者から登って後者から下りるのが無難です。
           延々と城坂を登った先に行き着くのは、桃の木平と呼ばれるやや広い削平地です。その上にも
          数段の平場が続き、また近くには水場もあることから、この険しい山上である程度の生活が営める
          ようになっていたものと推測されます。
           桃の木平からいったん北側の尾根筋へ向かうと、主水曲輪に出ます。こちらも数段の腰曲輪が
          続き、その先には小ピークの曲輪があります。実質的な副郭に相当する重要な曲輪と思われます
          が、名称は不明です。この曲輪まで樹木が整理されていて、魚野川下流側の雄大な眺望が眼下
          に広がります。そのまま尾根を遡上すれば主郭の実城に至りますが、道は整備されていないよう
          なので、桃の木平に戻ってから山頂を目指すことになります。
           実城と、その下の廣瀬曲輪との間に石垣がみられ、主郭周辺の限られた範囲だけ堀家時代に
          改修されたものと推測されます。この高さと時代を考えれば、それで十分だったのでしょう。逆に
          いえば、今も山城部の基本的な構造は、景勝時代までのそれを踏襲していると考えられます。
           実城の背後には、大城・小城という別ピークの出丸と曲輪群があるようなのですが、前述の通り
          脱水症状気味で余力がなく断念しました。再訪する機会と気力はあるのでしょうか^^;

           
 南西から坂戸城跡を望む。
正面から見上げる。 
 家臣屋敷跡。
居館部脇の堀底道状地形。 
 同上。
居館跡を望む。 
手前に猿がいるのでこれ以上近づけません^^; 
 3合目あたりから実城を見上げる。
城坂の入口。 
 城坂の途中。
小規模な削平地群か。 
 桃の木平。
主水曲輪。 
 主水曲輪背後の曲輪群。
北尾根ピークの曲輪からの眺望。 
右手奥が六万騎城跡。 
 水場跡。
桃の木平上方の削平地群。 
 実城へと続く腰曲輪。
廣瀬曲輪から実城を望む。 
 廣瀬曲輪背後の石垣。
実城のようす。 
 実城の櫓台に建つ富士権現堂。
実城からの魚野川上流方面の眺望。 
さすが米どころといった眺めです。 
 小城・大城を望む。
御居間屋敷跡。 
 御居間屋敷跡の虎口。
薬師尾根麓近くの先端部。 
 右手の土塁は遺構か。 
 山麓居館部の内堀跡。
同上。 


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