知久平城(ちくだいら) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 知久氏 | |
遺構 : 堀跡、土塁、井戸跡 | |
交通 : JR飯田線駄科駅徒歩20分 | |
<沿革> 大身領主知久氏の居城である。知久氏は平安末の諏訪大社大祝諏訪敦光の子敦俊が、 上伊那の知久沢に住したことにはじまるとされる。敦俊は他田信隆の子信貞を養嗣子とし、 信貞は承久三年(1221)の承久の乱での功により、下伊那の伴野荘地頭職を得たとされる。 知久平城は伴野荘に入った信貞によって築かれたと推測されるが、確証はない。 戦国時代に入り、天文二年(1533)までの間に、知久氏は神之峰城を築いて居城を移した とみられている。知久平城も引き続き支城として存続したと思われるが、城主など詳しいこと は定かでない。 天文二十三年(1554)、知久頼元は武田信玄に抵抗し、神之峰城を攻め落とされた。捕え られて甲斐国河口湖の鵜の島に幽閉された頼元は、翌二十四年(1555)に処刑された。 子の頼氏は落去していたが、元亀元年(1570)に許されて武田家に仕えたとされる。この 際、知久平城を居城としたと思われるが、やはり確証はない。 天正十年(1582)に織田信長が武田氏を攻め滅ぼすと、頼氏は織田氏に従った。同年に 信長が本能寺の変に斃れ、天正壬午の乱が勃発すると徳川家康に服属した。 天正十二年(1584)十一月、頼氏は突如家康から自害を命じられた。理由は明らかでない が、同月に小牧・長久手の戦いが終結していることから、その戦後処理に関連する処遇と みられている。知久氏の所領は没収され、伊那統治に派遣された菅沼定利は、知久平城を その拠点として取り立てた。定利によって、知久平城は大きく改修された。 天正十五年(1587)、家中の内紛によって下条康長が没落すると、定利は康長の居城で あった飯田城を接収して移った。これにより、知久平城は廃城となった。 <手記> 知久平城は天竜川左岸の段丘上の平城です。下久堅保育園の角に説明板があり、その 中の絵図や付近の標柱にしたがって歩いていくと、斎藤農園西側の本郭跡に辿り着きます。 途中には、二の郭の堀跡とみられる窪地があり、本郭には天守台といわれる南東隅土塁の ほか、北東隅付近にも墓地となった土塁が残っています。 本郭北麓の住宅前には「殿様井戸」の標柱が建っているのですが、どこが井戸跡なのか は示されていません。お宅の敷地を覗くと、池跡のような石組みがあり、これかとも思われる のですが、よく分かりませんでした。 その住戸の裏手にあたる台地先端の突出部は、出郭跡とされています。周囲を切岸にした 削平地で、造作は大したことありませんが、現状ではここが最も城跡らしさを感じられる場所 となっています。 馬出や外郭を備えた今日の知久平城跡は菅沼定利の改修による最終形態です。知久氏 時代はずっと小規模であったと考えるのが自然でしょう。個人的には、知久氏の城は出郭を 主郭とした尾根先の小城で、殿様井戸のある台地の窪地に居館を構えていたのではない かと推察しています。 |
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上久堅保育園角の説明板。 | |
二の郭の堀跡とみられる窪地。 | |
本郭跡のようす。 | |
天守台跡の土塁か。 | |
本郭北東隅付近の土塁跡。 | |
本郭付近からの眺望。 | |
本郭北辺の斜面。 | |
「殿様井戸」標柱。 | |
出郭(出丸)跡。 |