神之峰城(かんのみね)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 知久氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : 三遠南信自動車道飯田上久堅・喬木富田IC
      より車で10分


       <沿革>
           知久平城主知久頼為ないしその子頼元によって、新たな居城として築かれたとみられ
          ている。醍醐寺僧厳助の『天文二年信州下向記』によると、厳助が天文二年(1533)に
          文永寺へ下った際、「神峰」の城に知久氏を訪ねた記述があり、このときまでには築城・
          移転が完了していたと考えられている。このころの知久氏は拡大期にあり、座光寺氏や
          坂西氏を攻め降していたとされる。
           天文二十三年(1554)、下伊那は武田信玄の侵攻に遭い、頼元は激しく抵抗したもの
          の、神之峰城を攻め落とされた。捕えられた頼元は甲斐河口湖の鵜の島に幽閉され、
          翌二十四年(1555)に処刑された。これにより、神之峰城も廃城となったと推測される。


       <手記>
           神之峰はその名に違わず、とくに天竜川対岸から望むとひときわ目につく山容をして
          います。今では三遠南信自動車道が中腹を走り、飯田上久堅・喬木富田IC(長い…)
          で降りれば、そこから10分程度でアクセスできます。とはいえ、途中の道路は細く駐車
          スペースも限られているため、大きな車での訪城はおすすめできません。
           城には大きく3つの曲輪があり、それぞれ北から久堅神社のある曲輪・NHK電波塔の
          ある曲輪・少し離れた尾根筋の曲輪となっています。現地の説明板では、北から出丸・
          本丸・二の丸となっているのですが、城内最高所かつ最も面積の広いこの曲輪を出丸
          とするのは違和感があり、最も重要といえる北端の曲輪を主郭とするのが自然であろう
          と思われます。事実、北から主郭・二の郭・三の郭としている資料も少なくないようなの
          で、ここでもそちらに準拠します。
           主郭は縦に細長く、篝岩や鞍掛岩などの大岩がごろごろとしています。飯田方面から
          見て目に入るのはこの曲輪なので、実際に旗幟を立てたり篝火を焚いたりして、威勢を
          張っていたのかもしれません。
           二の郭もそれなりに面積がありますが、本郭に阻まれて眺望がまったく利かないので、
          やはりここを本丸とするのは実用的ではないように感じます。また、本郭と二の郭の間
          と脇を縫うように帯曲輪が伸びていて、その北西部分は矢立岩というシンボリックな岩を
          もつ、南小屋と呼ばれる腰曲輪となっています。
           二の郭背後には堀切があり、そこから少し尾根を行くと、三の郭に至ります。三の郭
          にも社が祀られていて、背後には最後尾とみられる堀切と、その脇に高さのある巨石が
          見られます。
           城域手前には上久堅郷土歴史資料館があり、その下には水の手の御手洗池があり、
          今も滾々と水が湧いています。資料館は開いているのか分からず、入りませんでした。
           武田氏に攻め落とされて以降、神之峰城の名は見えなくなっているようです。武田氏
          はあまり高所の城を好まない傾向にあるように思われるため、神之峰もそのまま廃城と
          なったものと推察されます。そうなると、現在の遺構は知久頼元の時代のものということ
          になり、たいへん貴重なように感じられます。

           
 鈴岡城跡から神之峰城跡を望む。
IC側から城山を望む。 
 大手跡。
御手洗池。 
 久堅神社下の説明板と標柱。
説明板前から二の郭(現地では本丸)跡を望む。 
 二の郭(現地では本丸)跡。
二の郭背後の堀切。 
 三の郭(現地では二の丸)跡を見上げる。
三の郭(現地では二の丸)跡。 
 三の郭背後の堀切。
南小屋の矢立岩。 
 南小屋脇下の腰曲輪。
本郭(現地では出丸)跡の鞍掛岩。 
 本郭(現地では出丸)跡。
本郭先端付近のようす。 
 本郭からの眺望。
 画面左半中央付近に松尾城跡と鈴岡城跡。
 右半中央付近に飯田城跡
本郭先端下の腰曲輪。 
 同上。


BACK