飯田城(いいだ) | |
別称 : 長姫城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 坂西氏 | |
遺構 : 門、石垣、堀、土塁 | |
交通 : JR飯田線飯田駅徒歩15分 | |
<沿革> 土豪坂西氏の居城として築かれたのがはじまりとされる。伊那坂西氏の初代は南北朝時代 初期の信濃守護小笠原貞宗の三男宗満といわれるが、伊那郡には坂西の由来となるような 地名が見当たらず、小笠原氏が鎌倉時代に守護を務めた阿波国の坂西郷との関連が指摘 されている。 宗満ははじめ松原宿の飯坂(飯田市愛宕町)に居館を設け、宗満の曽孫政忠の代に、愛宕 神社と土地を交換して新たに飯田城を築いたとされる(『伊那温知集』)。また、交換の相手は 山伏で、城内の山伏丸の名はこれにちなむともいわれる(『信陽城主得替記』)。 そもそも、宗満が入ったころの飯田郷地頭は阿曽沼氏ついで小山氏であったことが当時の 資料から明らかとなっている。小山氏は、天授六/康暦二年(1380)の小山義政の乱で没落 したため、坂西氏の飯田進出自体が、それ以降の政忠の代前後とする向きもある。 天文十五年(1546)、坂西伊予守政之は神之峰城主知久頼元と領地を巡って争い、飯田城 へ攻め込まれた。松尾小笠原信定や下条信氏の仲介で和議を結んだものの、頼元に4か村 を譲り渡すなど坂西氏に不利な内容となった。 天文二十三年(1554)に武田晴信(信玄)が下伊那へ侵出すると、坂西氏は武田氏に服属 した。永禄五年(1562)、政之の孫とされる坂西長忠が松尾小笠原信貴の領地を掠めようと して逆に討たれ、飯田城には武田家重臣秋山虎繁(信友)が入れられた。虎繁在城の間に、 今日の飯田城の下地となる拡張・改修が行われたとみられている。 天正元年、虎繁が岩村城将に転じると、坂西織部亮が飯田城主となった。織部亮は坂西 一族とみられるが、系譜は定かでない。 天正十年(1582)の織田信長による武田攻めに際し、飯田城には織部亮に加え保科正直ら が詰めていた。しかし、二月十四日に織田勢が梨子野峠を越えて下伊那に攻め入ると、城を 棄てて高遠城へ退いた。 武田氏が滅亡すると、伊那郡は織田家重臣毛利長秀(秀頼)に与えられ、長秀は飯田城を 居城とした。しかし、同年六月に本能寺の変が起こると、長秀は伊那を退去し、飯田城は下条 頼安に接収された。続く天正壬午の乱において、頼安は徳川家康に属したが、下伊那の多く の国人は北条氏に与同した。頼安は家康の援将奥平信昌らとともに、飯田城に籠城して防戦 に務めた。 乱後、善戦した下条氏は徳川家中での地位を高めたが、一方で松尾小笠原信嶺との対立を 深める結果となった。両者は何度か合戦に及んだが決着がつかず、和睦して信嶺の娘が頼安 に嫁ぐこととなった。しかし、天正十二年(1584)に頼安は年頭の挨拶で松尾城を訪れたところ、 信嶺に殺害された。 下条氏の家督は頼安の子牛千代が康長と名乗って継いだが、当時まだ子供であったため、 下条氏の勢力は大きく損なわれた。やがて家中に不和を生じ、天正十五年(1587)に康長は 家康の咎めを受けて没落した。代わって知久平城で伊那統治に当たっていた徳川家臣菅沼 定利が、飯田城へ移って居城とした。定利のもとで、飯田城は下伊那の中心として大きく改修 されたと推測される。 天正十八年(1590)に家康が関東へ移封となると、豊臣家臣となっていた毛利秀頼が、再び 飯田城主となった。文禄二年(1593)に秀頼が病没すると、所領10万石のうち、飯田城を含む 9万石が娘婿の京極高知に与えられ、実子の秀秋は1万石のみを相続した。高知によって惣堀 や城下町が整備され、近世城郭としての体裁が整えられたとされる。 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでの功績により高知は丹後一国12万3千石に加増・転封と なり、代わって小笠原秀政が飯田5万石に封じられた。同十八年(1613)、小笠原家は松本へ 加増・転封となり、飯田は幕府直轄領となった。 元和三年(1617)、脇坂安元が大洲藩から5万5千石で飯田に移り、藩を再興した。2代安政 は寛文十二年(1672)に龍野藩へ移封となり、続いて堀親昌が烏山藩から2万石で入部した。 以後、堀家が12代続き、3度の加減封を経て最終的に1万5千石で明治維新を迎えた。 <手記> 飯田城は両サイドが急斜面となった舌状の細長い丘を利用した城です。峰伝いに適当に堀を 切っていけば格好の要塞となる、おあつらえ向きの地形といえます。一方で、きわめて中世的 な選地である点も否めず、城下町から離れてしまっていることから、江戸時代にはあまり本丸・ 二の丸は使われなかったそうです。 堀家が佐幕派であったことから、明治維新の際に城は徹底的に破壊され、また昭和二十二年 の大火で城下町のほとんども灰燼に帰しています。そのため、城跡も城下もあまり古い風情は 残っていません。 本丸は長姫神社境内となっていて、本殿裏に僅かに石積みをもつ土塁がみられます。また、 駐車場の一角には11代藩主親義が農民の農耕に勤しむ姿を眺めて楽しんだとされる、観耕亭 の跡の碑があります。本丸の先端側は山伏丸跡で、今は旅館となっています。両曲輪の間は 段差となっていて、堀跡とも考えられます。 さらに、美術博物館と柳田國男館の間にも堀跡があり、中央図書館東側の切通しの道路も、 やはり堀跡を利用したもののようです。追手町小学校東脇の道沿いには、水の手御門の石垣 が一部残存しているということなのですが、こちらは見そびれてしまいました。 中央図書館裏手には、通称「赤門」と呼ばれる桜丸御門が現存しています。藩主の常住まい であった桜丸の正門で、市有形文化財に登録されています。 |
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本丸跡の長姫神社。 | |
神社本殿裏手の石積み土塁。 | |
同上。 | |
観耕亭の碑。 | |
本丸跡と山伏丸跡の間。堀跡か。 | |
美術博物館と柳田國男館の間の堀跡。 | |
同上。 | |
中央図書館東側の切通し。堀跡か。 | |
桜丸御門。 |