千種城(ちくさ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 千種顕経か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : 新名神自動車道菰野ICから車で5分


       <沿革>
           三木一草と呼ばれた後醍醐天皇の側近の1人である千種忠顕の四男・顕経は、伊勢国三重郡
          二十四郷を領してはじめ禅林寺城に拠り、後に千種城を築いて移ったと伝わる。築城については
          永徳元年(1381)、千種顕親によるものともいわれる。ただし、顕経が伊勢に住んだとする史料上
          の裏付けはなく、また顕親の実在についても不明である。
           千種氏はその後、いわゆる北勢四十八家の筆頭格となり1千騎を率いたとされる。しかし、弘治
          年間(1555〜58)に近江の六角氏および同氏から養子を迎えた田光城主梅戸氏らに攻められ、
          千種氏は六角氏重臣後藤賢豊の弟・三郎左衛門を養子とする条件で和睦した。
           永禄十一年(1568)に織田信長が北伊勢へ侵攻すると、千種氏は織田氏に降伏した。本能寺の
          変後は信長の次男・信雄に従ったとみられるが、天正十八年(1590)に信雄が豊臣秀吉によって
          改易されると、豊臣家の直参となったとされる。その後の千種氏および千種城の動静については
          詳らかでない。慶長二十年(1615)、千種顕重の子・顕理が大坂夏の陣で討ち死にし、千種家は
          滅んだ。


       <手記>
           千草集落外れの舌状の峰が千種城跡です。東麓に説明板と石碑があり、そこから階段を登って
          城内に入れます。この道は前後2郭あるうち先端側の曲輪を突っ切り、土塁を分断して土橋を渡り
          付け根側の曲輪に至るのですが、どう見ても後世の造作により堀や土塁が破壊されているものと
          思われます。
           現地の説明板では付け根側が本丸とありますが、両曲輪の間の堀を見ると、土塁が設けられて
          いるのは前方の曲輪だけなので、どちらかといえば先端側が詰曲輪であったとみるのが妥当だと
          感じます。ただ、付け根側の曲輪の方がだいぶ広いので、居館はこちらに置かれたのでしょう。
           千種城の東方、千種神社の境内は支城の金ヶ原城跡とされ、また両者の間には字向城があり
          ますが、これら3城を合わせても北勢の最大勢力とするにはやや手狭な印象です。千種城の先端
          には切通し道を跨いでもう1つ突出部があり、民家の敷地となっていますが、あるいはここも出丸
          であったかもしれません。それにしても1千騎の大将の居城としては控えめです。それが土着性に
          よるものか、他の理由があるのかは不明ですが、個人的な疑問点として残りました。

           
 千種城跡近望。
先端下の登城口と説明板、石碑。 
 先端側の曲輪のようす。
先端側の曲輪の土塁。 
道路で破壊されている模様です。 
 2曲輪間の空堀。
同上。 
 付け根側の曲輪の石碑。
付け根側の曲輪南辺の土塁。 
 同じく西辺の土塁。
西側下の堀切。 


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