田光城(たびか)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 田光隼則か
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口
 交通  : JR四日市駅または近鉄四日市駅から
      バスに乗り「田光」下車徒歩5分


       <沿革>
           『伊勢名勝志』によれば、永延年間(987〜989)に田光隼則が築き、後に梅戸に改姓したと
          される。梅戸氏は北勢四十八家の1つに数えられ、八風街道を通じて近江や京との繋がりが
          深く、長享元年(1487)の鈎の陣にも梅戸右京亮が参陣している。
           16世紀には近江・六角高頼の四男・高実が養子に入った。すなわち、六角氏の北伊勢進出
          を目的として送り込まれたものであり、高実は員弁郡に梅戸城を築いたとされる。しかし、永禄
          十一年(1568)に織田信長によって田光城は攻め落とされ、高実の子・実秀は討ち死にした。
          これにより、六角氏麾下の独立勢力としての梅戸氏は滅亡し、田光城も廃城となったとされる。


       <手記>
           田光城は田光川沿いに伸びる丘陵の先端部を利用して築かれています。多比鹿神社の裏
          を伝っていくのですが、現地にはとくに案内等はなく、城山までの道もはっきりしません。ただ、
          明るい林なので夏場でも訪城は可能でしょう。
           中心的な広い主郭と、その前後に方形を基調とした区画状の曲輪が並んでいるという点は、
          同じ北勢四十八家の朝倉氏が築いたとされる、南東の保々西城市場城と類似しています。
          他方で、これら2城の主郭が単独で要害を成していたり、田光城よりも方形区画が整然として
          いたりといった相違点もみられ、勢力ごとの特徴として興味深いといえるでしょう。逆に、田光
          の南の杉谷城は、どちらかというと田光城の構造に近く、梅戸氏の影響下にあったものと推測
          されます。
           城内に石積みが多くみられるのも特徴の1つです。石材は丸みを帯びてあまり大きくはなく、
          なんらかの工事で産出した石を適当に積み上げたという感じで、当時もそれほど高いものでは
          なかったでしょう。六角氏由来の造作とも考えられますが、それにしては技術が未熟という印象
          です。
           余談ですが、集落の南東外れにはその名も「田光」という酒を醸す早川酒造があります。私は
          まだ賞味したことがないのですが、たいへんに評判が良いようです。蔵元を訊ねてみたものの、
          小売りはしていないようで残念でした^^;

           
 多比鹿神社越しに田光城跡を望む。
多比鹿神社。 
 主郭前方の曲輪。
同上。 
 同じく堀および虎口。
主郭のようす。 
 主郭の土塁。
石塁を伴う土塁。 
 同上。
主郭の物見台状土塁。 
 主郭背後の空堀。
主郭背後の方形曲輪の石塁。 
 方形曲輪郭内のようす。
同上。 


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