大樹寺(だいじゅじ)
 別称  : 松平親忠館
 分類  : 平城
 築城者: 松平親忠
 遺構  : なし
 交通  : 愛知環状鉄道大門駅徒歩10分


       <沿革>
           岩津城主松平信光は、文明八年(1476)に安祥城を奪い、三男親忠に与えたとされる。
          その前年の同七年(1475)、親忠は鴨田郷に大樹寺を創建した。これは応仁元年(1467)
          の井田野の戦い(第一次井田野合戦)における戦没者を弔うためであったとされる。安祥
          へ移る前の親忠は鴨田周辺に所領をもっていたとされ、大樹寺は親忠の館跡ないしその
          周辺に建立されたものと考えられている。
           大樹寺は安祥松平家の菩提寺となり、後に同家が松平宗家となった。永禄三年(1560)
          の桶狭間の戦いに際し、義元敗死の報に触れた松平元康(徳川家康)は大樹寺に逃げ
          込んだものの、先祖の墓の前で自害しようとした。しかし、住職の登誉に「厭離穢土 欣求
          浄土」の教えとともに諭され思いとどまり、天下への志を抱くに至ったと伝わる。元康は、
          寺の僧らとともに追っ手と戦い、空き城となった岡崎城へ復帰したとされるが、この経緯に
          ついては異説もある。
           以後、大樹寺は徳川家の菩提寺、ひいては将軍家の勅願寺として繁栄した。


       <手記>
           松平宗家の菩提寺として知られる大樹寺は、井田の丘陵の北西端付近にあります。
          矢作川の氾濫原が広がる西側に対しては台地の崖端にあたり、親忠の館が営まれて
          いたとしても、なんら不思議はありません。とはいえ、寺院となって久しく、城館跡の遺構
          らしきものは見当たりません。
           大樹寺といえば豪壮な山門がまず目に浮かびますが、その門前から反対側を向くと、
          大樹寺小学校南門となっている総門の向こうに岡崎城天守を望むことができます。この
          仕掛けは3代将軍徳川家光の発案によるものとされ、今では「ビスタライン」と呼ばれて
          います。この眺望を守るため、岡崎市では条例を定めて、ライン上の建物に高さ制限を
          設けているそうです。
           それにしても、大樹寺という寺名は親忠が松平家から将軍を輩出することを祈願して、
          開山の勢誉愚底の発案により征夷大将軍の唐名から付けたとされていますが、実際に
          家康が将軍になったからいいものの、もしならなかったら、とんだビッグマウスと笑い物
          になってしまったことでしょう。歴史の巡り合わせとは面白いものだと、改めて感じさせて
          くれます。

           
 大樹寺山門。
境内のようす。 
 山門前から、総門越しに岡崎城天守を望む。


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