大物城(だいもつ) | |
別称 : 尼崎城、尼崎古城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 細川高国か | |
遺構 : なし | |
交通 : 阪神電鉄本線大物駅下車 | |
<沿革> 大物城があった大物浦は、古くから海運上の要地であり、平安時代末期には源頼朝 の追討を受けた源義経が、大物浦に停泊していた九州の豪族佐伯惟栄の船団を頼った が、暴風雨のために難破し、陸路東北への転進を余儀なくされたとされる。 『日本城郭大系』によれば、大物城の初見は『萩藩閥閲録』にみえる文明五年(1473) としている。他方『如来院文書』によれば、永正十六年(1519)二月に、管領細川高国 が「柵城」を築いたとされ、一般にはこちらをもって、大物城の築城時期としている。この 前年には、高国を支援していた大内義興が領国周防へ帰国しており、単独で対立して いた細川澄元や四国の三好之長に備えなければならなくなったことから、大物浦を押さ える城の必要が生じたものと推測される。また大永六年(1526)にも、高国は細川尹賢 に命じて尼崎に城を築かせている。この「尼崎城」は、「柵」程度であった大物城を拡張・ 整備したものと解されている。 翌大永七年(1527)の桂川原の戦いで、高国は澄元の子晴元を擁する波多野稙通や 之長の甥政長らに敗れて近江坂本へ落ち延びた。大物城も、この戦いの前後に晴元方 に落とされたものと推測される。 享禄三年(1530)十一月、播磨守護代浦上村宗の支援を得た高国は、大物城を攻め、 城主薬師寺国盛は高国に降った。翌四年(1531)まで、高国勢と晴元勢は、淀川付近を 境に攻防を繰り返していた。 享禄四年六月四日、世にいう「大物崩れ」が起こった。このとき、高国・村宗軍は大坂 中嶋付近に陣を布いていたが、村宗の主君である播磨守護赤松政祐が後方の神呪寺に 着陣した。しかし、政祐は父義村が村宗に暗殺されたことを恨みに思っており、晴元方と 内通していた。政祐勢は突如背後から高国・村宗軍に攻めかかり、これに呼応した晴元 勢との挟み撃ちに遭った。高国・村宗勢は混乱の内に瓦解し、高国は大物城への撤退 を試みた。しかし、大物城はすでに赤松勢に占領されており、高国は尼崎の藍染屋へと 逃げ込み、甕の中へ潜んだ。周辺を探索していた晴元方の武将三好一秀は、たくさんの 真桑瓜を抱えて子供たちに声をかけ、高国の潜伏場所を知らせたら瓜を全部あげようと もちかけ、子供らは即座に教えたとする逸話がある。高国は捕えられ、晴元の命により 広徳寺で自害させられた。 天正六年(1578)、有岡城主荒木村重が織田信長に反旗を翻すと、尼崎城に村重の 子村次が廃された。この尼崎城は、大物城を指すとする説が有力とされる。村重は織田 の大軍を相手に有岡城で10か月ほど耐えたが、翌七年(1579)九月二日の夜、名物の 茶壷を背負って数名の側近とともに猪名川を下り、尼崎城へ移った。従来は、臆病風に 吹かれての敵前逃亡とされてきたが、近年では毛利氏に援軍を直接要請するのが目的 であったとみられている。 村重の脱出はまもなく織田方の知るところとなり、主なき有岡城は調略を受けた上で、 十月十五日に総攻撃が行われ開城・降伏した。城代の荒木久左衛門(池田知正)らは、 降伏の条件として村重に降伏するよう尼崎城へ説得に赴いたが、拒絶されたため信長の 処罰を恐れて逃散した。これを受けて、信長は久左衛門の妻子を含む荒木方の人質を 悉く処刑した。 同年十二月、村重はさらに花隈城へ移った。これにより、大物の尼崎城は織田氏の手 に渡り、そのまま廃城となったものとみられる。 <手記> 中世大物城と近世尼崎城が同じ場所にあったか否かという問題は、いまだ決着をみて いませんが、今日では別の位置にあったとする説が有力とされています。近世尼崎城下 を描いた絵図に「古城」と記された場所があるのが根拠とされ、現在の大物2丁目付近に あたるということです。 とはいえ、尼崎城址同様周辺は完全に住宅地化され、遺構はおろか当時の地勢を読み とることさえ困難です。一応、2丁目東端には大物主神社が鎮座し、このあたりが大物の 中心地だったのではないかと推測されます。神社の西にある深正院は、尼崎藩主松平家 の菩提寺とされています。あるいは、城址を利用して寺が建立されたとも考えられますが、 いずれにせよ表面観察からは何もいえません。 大物駅北口の公園脇には、大物崩れの戦跡碑があります。 |
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大物城址比定地の大物2丁目周辺現況。 | |
深正院。 |