尼崎城(あまがさき)
 別称  : 琴浦城、尼丘城
 分類  : 平城
 築城者: 戸田氏鉄か
 遺構  : なし
 交通  : 阪神電鉄本線尼崎駅徒歩5分


       <沿革>
           尼崎の湊は、またの名を大物浦と呼び、16世紀前半には大物城が築かれていた。中世
          大物城の別名が尼崎城であったため、大物城と近世尼崎城は同一であるとする説もある
          が、近年では別個のものであるとする見方が有力である。
           今日に伝えられる近世尼崎城を築いたのは戸田氏鉄であるが、それ以前には建部氏が
          尼崎を領していた。尼崎藩建部氏は、建部寿徳(高光)が豊臣秀吉から太閤蔵入地である
          尼崎3万石の代官に任じられたことにはじまる。
           寿徳の子光重は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に属したために改易となった
          が、光重の子の政長が大坂の陣での功績により元和元年(1615)に1万石で尼崎に復帰
          した。1万石という規模からみて、建部氏時代に城が営まれていたとは考えにくいが、藩府
          がどこに置かれていたのかは不明である。
           元和三年(1617)、政長は播磨林田藩へ転封となり、代わって氏鉄が近江膳所から5万
          石で尼崎に入封した。同年、幕命により氏鉄は尼崎城の築城を開始した。近世尼崎城の
          歴史は、一般にはここから始まるとされる。幕府から派遣された奉行のなかには、政長も
          名を連ねていた。同五年(1619)に将軍徳川秀忠が上洛した際には、修築中の大坂城
          並んで、築城中の尼崎城にも秀忠自身が足を運んだ。
           寛永十二年(1635)、氏鉄は大垣藩へ加増転封となり、代わって青山幸成が尼崎藩主
          となった。以後、青山氏4代、桜井松平氏7代を数えて、明治維新を迎えた。


       <手記>
           現在の明城小学校東半付近が、尼崎城本丸跡となります。小学校南辺に石碑が建て
          られていますが、これは本丸堀の橋脚を利用したものだそうです。尼崎城は、本丸を中心
          に、螺旋状に二の丸、松の丸、西三の丸と取り巻く立派な総石垣造りの近世城郭でした
          が、今日では完全に破壊しつくされ、何一つ残っていません。ここまできれいに均しきって
          しまえるものかと、逆に人間の力の成せる凄さを感じてしまいます。
           阪神尼崎駅から庄下川を渡ると、石垣と塀が目に入ってきます。尼崎城址公園に復興
          されたものですが、当時の遺構でもなければ縄張りとも合致しません。気分程度のものと
          割り切って見なければなりません。公園の南にある桜井神社本殿脇には、天守のものと
          される棟瓦が展示されています。ちなみに、尼崎城天守は珍しい四層四重のものでした。
          小学校校庭に、簡単な天守のレプリカが展示されています。
           そのほか、何とか城跡を感じることができるものとしては、阪神車庫に沿って北西から
          南東に斜めに走る道路は、城の外堀跡をなぞったものです。

          (追記)
           篤志家により2018年に建造された模擬天守を観に、再び尼崎を訪れました。といっても
          時間の都合で歩き回れたのは次の電車までの10分ほどで、本当に駆け足で眺めただけ
          となってしまいましたが。本丸は小学校となっているため位置は大きく異なっていますが、
          外観はよく再現されているように思いました。できるだけ当時に近づけなければNOという
          風潮が高まっていますが、よほどのことがない限り用地の確保が困難な尼崎においては、
          このやり方が次善のベストというのは理解できます。

           
 復興模擬天守その1。
その2。 
 その3。
その4。 
 明城小学校南西隅の尼崎城址碑。
尼崎城址公園の模擬石垣と塀。 
 桜井神社の天守棟瓦。
明城小学校内の天守レプリカ。 


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