檀風城(だんぷう) | |
別称 : 雑太元城、雑太城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 本間氏 | |
遺構 : 削平地、堀跡か | |
交通 : 両津・佐和田・真野市街よりバスに乗り、 「竹田橋」下車徒歩5分 |
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<沿革> 佐渡国守護代本間氏の初期の居館跡と伝わる。本間氏は武蔵七党の1つ横山党 の海老名氏庶流とされ、相模国愛甲郡依知郷を本貫とするとされる。初代本間能忠 (義忠)の子能久(義久)は、鎌倉時代初期に佐渡国守護代となり、実際に下向した ものとみられる。早ければこのときに、檀風城の前身となる館が築かれたものと推測 される。 元亨四年(1324)、討幕を企てたとして後醍醐天皇の腹心日野資朝が佐渡へ流罪 となると(正中の変)、本間山城入道がその身柄を預かった。資朝は本間氏の館で 「秋たけし 檀(まゆみ)の梢吹く風に 雑太の里は 紅葉しにけり」との和歌を詠み、 これにちなんで「檀風城」の雅称が生まれたとされる。資朝はその後、後醍醐天皇が 再び討幕を図ると(元弘の乱)、元弘二年(1332)に当地で処刑された。 本間氏は分家を多く輩出したが、時代が進むにつれて本家との実力差は縮まって いった。とくに、16世紀初めの永正の乱で越後国が乱れると、その影響が佐渡にも 波及し、分家間で相争うようになった。そのような状況下で、本間有泰ないしその父 泰時のころに、本間宗家は檀風城の上手に雑太城を築き、戦国の世に備えたものと みられている。檀風城がその後も存続したか否かは詳らかでない。 <手記> 佐渡警察署の隣にある舌状台地が檀風城跡とされています。入口の脇には個人 で建てたような石碑と、市教委が設置した説明板があります。現状は田畑で、私が 訪れたときにちょうど持ち主の方が作業をしていらっしゃいました。あまり歴史には ご関心がないようで、城跡と聞いているが詳しいことはご存じないとのことでしたが、 見学はご自由にとおっしゃっていただきました。 台地に上がる付け根の道が堀跡っぽいという以外は、ほぼ1枚の平坦面で城跡 らしいものはとくに見当たりません。台地の上り口の角には、「日野贈二位公〇」と 彫られた小さな石柱があり、その前には花筒が置かれ水が供えられていました。 史料や考古学上は、ここが檀風城跡であるという確証はないそうで、歴史的な ネームバリューに比べると、やや消化不良の感は否めませんでした。 |
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檀風城址之碑。 | |
説明板。 | |
檀風城跡の台地の縁。 | |
台地上のようす。 | |
台地へ上がる道の角。堀跡か。 |