雑太城(さわだ) | |
別称 : 竹田城、新川城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 本間氏 | |
遺構 : 堀、土塁、曲輪 | |
交通 : 両津・佐和田・真野市街よりバスに乗り、 「妙宣寺」下車すぐ |
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<沿革> 佐渡守護代として鎌倉時代初期に佐渡島へ渡った本間氏は、佐渡国府近くの丘に 館を設け、後に檀風城と呼ばれるようになった。本間氏は多くの分家を輩出したが、 時代が進むにつれて地力をつけ自立を図る家が現れ、相対的に宗家の権威は低下 した。15世紀前半の永正の乱を機に、越後国内の動乱が佐渡へ波及し、分家同士が 相争うようになると、本間宗家は有泰ないしその父泰時のころ、上手に新たに雑太城 を築いて戦乱の世に備えたとみられている。その後、雑太本間家は佐渡国内に割拠 する勢力の1つといった位置づけに転落するが、滅ぶこともなく続いた。 天正十七年(1589)、羽茂城の羽茂本間家が上杉氏に反旗を翻したことから、上杉 景勝は佐渡へ攻め込んだ。雑太本間家は上杉氏に従属したが、佐渡を制圧した景勝 は、有泰の孫の憲泰を越後へ移して雑太城を破却した。跡地には妙宣寺が移転し、 今日に至っている。 <手記> 妙宣寺は日蓮の弟子阿仏坊日得が開いた寺で、とても厳粛かつ森閑とした雰囲気 が漂っています。本堂境内が主郭で、その前後に1郭ずつ付属し、東側の曲輪には 県内唯一というとても立派な五重塔がそびえています。本当に規模も大きく優美で、 周囲の木立の閑けさもあり、これだけでも訪れる価値があるように思います。相川の 寿司屋で偶然一緒になった寺社仏閣好きのスウェーデン人旅行者も、「京都なんか 行かなくても、こっちの方が静かでいいジャン」と絶賛していました(笑)。 閑話休題。五重塔の曲輪と主郭の間には明確な堀があり、城内で最も見ごたえの ある遺構となっています。主郭の周囲にも、お堂の土台などに転用された土塁跡が 認められます。そのうちの1つ番神堂の脇は虎口状に開いていて、南側下の谷へと 下りられます。その中途には墓地になっている平場があり、あるいは帯曲輪跡とも 考えられます。北にもう1つ付属する曲輪は、本堂裏で藪化しており、歩くのは断念 しました。 谷を挟んだ向かい側には、大川城や国分城といった支城があり、広義の雑太城を 形成していたものと思われます。妙宣寺寺域単体での防御力はそこまででもないと みられますが、周辺の支城群と合わせると、本間宗家の底力を見ているような感じ がしました。 |
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妙宣寺五重塔。北の曲輪跡。 | |
北の曲輪脇の堀跡。 | |
北の曲輪と主郭の間の堀。 | |
同上。 | |
主郭のようす。 | |
主郭の土塁跡か。 | |
番神堂。同じく土塁跡か。 | |
番神堂脇の開口部。虎口跡か。 | |
開口部下の平場。帯曲輪跡か。 |