堂ヶ坂砦(どうがさか) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 徳川家康か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : JR中央本線穴山駅徒歩20分 | |
<沿革> 天正十年(1582)の天正壬午の乱に際して、徳川家康によって築かれたと伝わる。『家忠日記』に よれば、家康は八月十日に新府城に着陣し、翌十一日に「新府むかいにあら城普請候」とある。この 「あら城」が具体的にどこを指すかは不明だが(『日本城郭大系』では日ノ出砦と推測している)、新府 周辺に新たに臨時の城砦が築かれていたことが分かる。 同年十月に家康と北条氏直の間に和議が成立すると、堂ヶ坂砦も廃されたと思われる。 <手記> 堂ヶ坂砦は、七里岩の台地上の小丘にあったとされ、現在は御名方神社境内となっています。遺構 はわりと明瞭で、本殿のある主郭跡を中心に輪郭式に2段の帯曲輪が巡っています。削平のしかたは いたって単純で、2段目東側を除いては縁に土塁が設けられた形跡もありません。最下段は、南東隅 付近で土塁を伴った堀底道となり、東麓の塩川河岸まで続いているように見受けられます。 堂ヶ坂砦南西の能見城の北麓を東西に、七里岩を横断して防塁が築かれていたことが知られ、その 東端は堂ヶ坂砦周辺となっています。この防塁は、近年では家康によって築かれたものと考えられる ようになっています。もしそうであれば、実際の防衛ラインはこの防塁であり、堂ヶ坂砦は守備兵を詰め ておくための陣城に過ぎなかったものとも推測されます。 |
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御名方神社。 | |
最下段から2段目を望む。 | |
2段目から最上段(主郭)を望む。 | |
2段目東側の土塁の痕跡。 | |
最下段南東隅付近。 土塁を伴った堀底道となっています。 |