江尻城(えじり)
 別称  : 小芝城、於柴城
 分類  : 平城
 築城者: 武田信玄
 遺構  : なし
 交通  : JR東海道本線清水駅徒歩15分


       <沿革>
           永禄十一年(1568)、武田信玄が駿河へ侵攻した際に、馬場美濃守信春に命じて築かせた
          とされる。西は今川氏や徳川氏、東は北条氏との間で対立を抱える緊張状態の中、江尻城は
          信玄の甥にあたる武田信堯が数百の兵と共に守備していたといわれる。
           元亀元年(1570)に西駿の今川勢力を駆逐した信玄は、改めて江尻城の普請を行い、重臣・
          山県昌景が新たに城将となった。天正三年(1575)の長篠の戦いで昌景が戦死すると、武田
          一門の穴山信君(梅雪)が城代を引き継いだ。信君は城をさらに堅固に拡張し、象徴的な櫓も
          設けられたことが、高山飛騨守への朱印状からうかがえる。
           天正十年(1582)に織田信長が武田攻めを敢行すると、信君は織田方の徳川家康に内応し、
          江尻城を明け渡した。武田氏が滅亡すると、信君は所領を安堵されたが、その御礼に信長を
          伺候した後、本能寺の変を受けた落ち武者狩りにより落命した。
           続く天正壬午の乱において、穴山氏本貫の甲斐国河内領は家康に接収されたが、江尻領は
          徳川家臣に収まった信君の子・勝千代に安堵された。しかし、勝千代は天正十五年(1587)に
          早世したため、穴山家は取り潰された。
           その後、徳川家臣の天野康景や西郷家員、松平家忠らが江尻城代となったとされるものの、
          詳しい扱いは明らかでない。天正十八年(1590)に家康が関東へ移封となると、中村一氏が
          駿府城主となり、その家臣・横田隼人(横田内膳村詮ないしその縁者か)が城番とした入った
          とされる。中村氏の治世において、城の外郭部に東海道江尻宿が移された。
           関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、内藤信成が駿府城主となった際に、江尻城は廃城と
          なったとされる。


       <手記>
           江尻城は巴川下流の屈曲部外側に築かれた平城です。輪郭式に二重の堀に囲まれ、その
          外側に3つの丸馬出しを具えていたとされています。今昔マップによると明治までは二重堀が
          残っていたようですが、今では市街地に呑まれて遺構はありません。
           本丸は江尻小学校となっていて、南東に隣接する稲荷神社は穴山信君が勧請したと伝わり
          ます。神社裏手の小学校駐車場には小芝城跡の石碑が建っていますが、文字が読みづらい
          ので見落とし注意です。そのほか、周囲に「二の丸町」や「大手」、「元城町」といった地名が
          あるのが数少ないよすがの1つといえるでしょう。
           武田氏時代には駿府が重要視された形跡はなく、おそらくこちらが駿河中心部の経営拠点
          だったのでしょう。その背景としてはより甲斐の本国に近く、また巴川河口の袋城と共に水軍
          の基地を築きたかったという点が挙げられると思われます。
           遺構はないものの、現在の港町・清水の礎となったのは信玄の築いた江尻城にあるといえ、
          興味深い歴史の流れといえるのではないでしょうか。

           
 小学校東辺に建つ説明板。
小芝城址碑。 
 本丸跡の小学校校庭。
穴山信君が勧請したとされる稲荷神社。 
 二の丸交差点。


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