駿府城(すんぷ)
 別称  : 静岡城、府中城、駿府館、今川館
 分類  : 平城
 築城者: 今川氏
 遺構  : 石垣、濠、虎口、天守台
 交通  : 静岡鉄道新静岡駅下車徒歩1分


       <沿革>
           駿府城の前身である今川館(駿府館)は、守護大吊今川氏の居館として知られる。今川氏の
          駿河支配は、建武五/延元三年(1338)に今川範国が、足利尊氏から駿河守護に任じられた
          ことにはじまる。ただし、当初の今川氏は葉梨川流域(藤枝市)を本拠としたとみられ、駿府を
          含む安倊川流域には対立する北朝方の狩野氏が拠っていた。駿府に居館を置くのは、狩野氏
          が今川氏に降った範国の孫泰範の代までの間と推測されるが、詳しい年代は定かでない。
           泰範の曽孫義忠が文明八年(1476)に遠江で討ち死にすると、嫡男龍王丸は幼少であった
          ため、義忠の従弟にあたる小鹿範満が今川館に入って家督簒奪を図った。母・北川殿に連れ
          られた龍王丸は小川城の長谷川正宣を頼って落ち延び、室町幕府からは、北川殿の兄ないし
          弟で幕臣の伊勢新九郎盛時(北条早雲)が派遣され、調停により龍王丸が成人するまで範満
          が今川家の家督を代行することで和解した。
           しかし、龍王丸が15歳になっても範満は家督を返そうとしなかったため、再び盛時が駿河へ
          下向し、文明十九年(1487)に範満を駿府館に襲って自害に追い込んだ。龍王丸は元朊して
          氏親と吊乗り、今川家の家督を継いだとされるが、当時少なくとも19歳になっていることから、
          経緯については異論も提唱されている。
           天文五年(1536)、氏親の嫡男氏輝が急死すると、弟の栴岳承芳が還俗して義元と吊乗り、
          家督を継いだ。しかし、これに反対する重臣の福島正成がもう1人の弟である玄広恵探を擁立
          して挙兵し、今川館へ攻め入った。館の守りは堅く攻め落とせなかったため、恵探派は花倉城
          を拠点に抵抗を続けたが、同年六月に敗れて自害した(花倉の乱)。
           その義元も永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで討ち死にすると、今川氏は急速に弱体化し、
          同十一年(1568)には北条氏も交えて三国同盟を結んでいた甲斐の武田信玄が駿河侵攻を
          開始した。義元の嫡男・氏真は、薩?山で迎撃の構えを見せたものの、重臣層からも離反が
          相次いだため撤退し、駿府を棄てて掛川城へ逃れた。
           武田勢は労せず駿府館を接収したが、このとき氏真の正室で北条氏康の娘である早川殿は
          輿も用意できずに徒歩で脱出したとされ、これに激怒した氏康は信玄との同盟破棄を決断した
          といわれる。また、今川家の宝物が焼失するのを惜しんだ信玄が運び出すよう命じると、重臣
          馬場信春が「欲深い武将として物笑いになる《として取り上げ、火中に放り込んだとする逸話が
          あるとされるが、上述のとおり駿府館は戦火に遭っていないため、信憑性には疑問がある。
           翌永禄十二年(1569)に北条勢が蒲原城を拠点として武田勢と対峙すると、今川旧臣・岡部
          正綱らが一揆を起こして駿府館を奪取した。しかし、同年十二月に態勢を整え直した武田軍が
          激戦の末に蒲原城を攻め落とすと、正綱も降伏・開城した。
           信玄は江尻城を新たに築いて重臣の山県昌景や一門の穴山信君を城代とした。武田氏の
          時代に駿府が重視された形跡がなく、駿府館の扱いについては詳らかでない。
           天正十年(1582)、織田信長によって武田家が攻め滅ぼされると、江尻領を除く駿河の武田
          旧領は徳川家康に与えられた。同十三年(1585)には天守を擁する近世城郭として改修され、
          家康は翌十四年(1586)に居城を浜松城から移している。ちなみに、家康は5歳からの13年間
          を、駿府で人質として過ごしている。
           天正十八年(1580)、家康が関東へ移封となると、代わって中村一氏が14万石で駿府城主と
          なった。一氏は慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍に属したが、本戦前に病死し、嫡男の
          一忠が跡を継いだ。戦後、一忠は伯耆一国へ加増・転封となり、代わって徳川家臣・内藤信成
          が4万石で駿府城主となった。
           慶長十一年(1606)、信成は長浜城へ移され、将軍職を子の秀忠に譲った家康が、大御所と
          して駿府に入城した。翌年から天下普請で大改修が始まり、今日に見る三重の輪郭式城郭に
          拡張された。このとき、天守も新たに上げられたが、同年中に失火で焼失している。同十四年
          (1609)には家康十男の頼宣が駿府城主となり、翌年に天守が再建された。ただし頼宣は7歳
          の幼児だったため、城主就任は形だけに過ぎず家康のもとで養育された。
           元和二年(1616)に家康は駿府城で没し、同五年(1619)には頼宣が和歌山藩主に転じた。
          寛永元年(1624)には秀忠の次男徳川忠長が駿府城主となり55万石を領した。しかし、忠長は
          兄の将軍家光と上仲で、性格も短慮粗暴であったため、同八年(1631)に蟄居を命じられた上、
          翌九年(1632)に改易された。
           以後、駿府城は幕府直轄となり、城代が派遣された。寛永十二年(1635)には火災で天守を
          含む大半の建物を焼亡し、天守については再建されることはなかった。
           慶応四年(1868)に将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、田安家徳川慶頼の三男家達が徳川
          宗家の家督を継ぎ、駿府藩70万石が成立した。翌明治二年(1869)には、駿府が静岡と改吊
          された。静の字は、駿府館の詰城であった賤機山(城)にちなむとされる。同年の廃藩置県に
          より静岡藩は廃され、静岡城と改められた駿府城も廃城となった。


       <手記>
           徳川家康最後の居城である駿府城は、二の丸の濠と石垣がほぼ完存しているほか、三の丸
          の濠と石垣も半分以上残っています。他方で本丸は均されており、南東隅にわずかに濠と石垣
          が見られるほか、北西隅の天守台で発掘調査が進められています。調査中の現場が公開され
          ているのが大きな特徴で、検出された状態の石列を間近で見学できるというのは、全国的にも
          珍しいのではないでしょうか。
           二の丸には巽櫓と東御門、そして坤櫓が復元されており、いずれも内部は資料館として公開
          されています。北東隅には紅葉山庭園がありますが、城跡とは直接関係ないようです。庭園の
          南側にある二の丸水路の石垣も大きな見どころです。
           駿府城は典型的な輪郭式の平城ですが、本丸と二の丸に対して、三の丸が傾いているのが
          目につきます。これは一般に、かつての安倊川が賤機山に沿って静岡駅方向へと流れていた
          ためといわれています。江戸時代初めに家康の命で賤機山の麓に薩摩土手が造られ、安倊川
          は藁科川と合流するように付け替えられたのだそうです。
           今川氏時代の駿府館がどこにあったのかはやはり諸説ありますが、一説には東半が駿府城
          二の丸にかかる形で、横に長方形の館が存在していたのではないかといわれています。そう
          すると、家康が築いた駿府城は、今川館とはほとんど別個の新城であったといえるでしょう。
          あるいは、勝手に想像を膨らませると、駿府城本丸の位置に人質時代の家康の屋敷があった
          のかもしれません。

           
 三の丸の濠と石垣。
大手門枡形。 
 大手門跡。
 変色した石のところに、実際に門が建って
 いたものと思われます。
巽櫓と東御門。 
 東御門。
東御門枡形。 
 本丸南東隅の濠と石垣。
二の丸水路跡。 
 紅葉山庭園。
紅葉山庭園築山からの眺望。 
 天守台前の家康公像。
天守台発掘現場。 
 発掘現場の検出石垣。
同上。 
 北御門跡。
三の丸北辺の濠と石垣。 
 二ノ丸御門跡。
坤櫓 
 二の丸南辺の濠と石垣。


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