福住中定城(ふくすみなかさだ)
 別称  : 福住城、中定城、
 分類  : 山城
 築城者: 福住氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : JR桜井線/近鉄天理線天理駅からバスに
      乗り、「国道福住」下車徒歩20分


       <沿革>
           福住城と呼ばれる城は中定と井之市の2つあり、中定城の方が古城であるとみられている。
          城主福住氏は筒井氏に属した国人で、至徳元年(1384)の『長川流流鏑馬日記』に「福住殿」
          として見えるのが史料上の初出とされるが、出自や系譜は明らかでない。長禄年間(1457〜
          60)には筒井順弘・成身院光宣兄弟の弟とされる五郎が福住氏の養嗣子となっており、以降
          しばしば筒井氏から養子を迎え、福住氏は筒井氏の一門として活動した。
           福住城については、永享六年(1434)の『興福寺賢聖院経巻奥書』に筒井城と並んで登場
          し、応仁元年(1467)に始まる応仁の乱では筒井勢の拠点の1つとなった。中定城から井之市
          城へ移った経緯や時期については定かでない。
           永禄十一年(1568)、松永久秀が筒井城を攻め落とすと、筒井順慶は叔父の福住(福須美)
          順弘を頼った。元亀元年(1570)には松永勢が福住城を攻撃しているが、中定城を指している
          のかは不明である。順慶は翌二年(1571)に辰市城の戦いで久秀軍に大勝し、筒井城を回復
          した。
           天正八年(1580)に織田信長が大和一国破城令を発した際に、福住城も廃城となったものと
          推測される。順弘の子・定慶は順慶の養子となり、元和元年(1615)の大坂夏の陣に際して
          豊臣方に郡山城を攻められた。城内にはわずかな兵しかおらず、福住へ撤退したが、戦後に
          これを恥じて自害したとされる。なお順弘の子は筒井順斎といい、その子・正次が定慶と同一
          人物であるともいわれる。正次の子・正信は江戸幕府の旗本となり、その末裔としてロシアと
          交渉に当たった幕末の幕臣・筒井政憲を輩出した。


       <手記>
           福住は奈良盆地東方山間の地域で、中定城はその中心部に横たわる丘陵塊の中ほどに
          あります。南東麓の道路沿いに五大力明王という小さな赤い神社があり、その近くに登城口
          の案内が建っています。
           基本的には単郭に近く、前後に同じくらいかより高いピークがあるにもかかわらず、どちらも
          城域に含まれていないのが大きな特徴です。他方で主郭周囲は横堀で囲まれ、前後の鞍部
          には堀切が設けられています。堀はいずれも立派な規模で、また主郭の奥には物見台ないし
          櫓台状の土塁と土壇があります。
           全体としてみると、城砦としては中途半端な選地で曲輪の形成や配置も中途半端ではある
          ものの、技巧的な堀の造作など戦国時代後期の改修の痕跡が見られます。おそらく、もともと
          は福住氏の館ないし簡易な詰城であったものが、松永久秀との戦いにおいて井之市城と共に
          強化されたのでしょう。旧時代的な選地・規模と先進的な防御設備を合わせ持つ、過渡期的な
          城と評価できるのではないでしょうか。

 五大力明王。登城口の目印です。
主郭の南側にある神社。 
副郭か。 
 神社下の鞍部。
 南端の堀切跡か。
主郭と境内の間の堀切。 
 主郭虎口の土塁。
同上。 
 主郭南西1段下の曲輪。
主郭の横堀。 
 同上。
主郭南西端の堀切。 
 主郭の城址標柱。
主郭奥の物見台状土塁。 
 北端の堀切。
同上。 


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