筒井城(つつい)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 筒井氏
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : 近鉄橿原線筒井駅徒歩5分


       <沿革>
           大和の戦国大名筒井氏の居城である。筒井氏は、事実上の大和守護であった興福寺の衆徒から
          発展した国人であるが、その出自については藤原氏説と大神氏説があり判然としない。15世紀前半
          の大和永享の乱に際し、筒井順覚の名が登場するのが筒井氏当主の初出である。このときすでに
          筒井城は存在していたものとみられているが、正確な築城年は不明である。
           順覚は、永享六年(1434)に越智維通との戦いで討ち死にし、跡を嫡男の順弘が継いだ。順弘は、
          幕府と関係の深い弟の成身院光宣が将軍足利義教の支援を受けたこともあり、同十一年(1439)に
          維通を討ち取ることに成功した。しかし、まもなく光宣と対立して筒井城を逐われ、嘉吉三年(1443)
          に仇敵であるはずの維通の子家栄の助力を得て筒井城主に返り咲いたが、同年中に殺害された。
          跡を、光宣に擁立された弟の順永が継いだ。
           まもなく、光宣・順永兄弟は大乗院門跡経覚と対立し、幕府の支持も失った。筒井城は、経覚方の
          豊田頼英・小泉重弘・古市胤仙ら大和国人衆に攻められたが、持ち堪えている。康正元年(1455)、
          経覚を支援していた管領畠山持国が死去すると、その子義就と甥弥三郎の間で家督争いが生じた。
          筒井氏は弥三郎を支持し、筒井城は義就方に攻め落とされた。光宣・順永兄弟は福住城へ退いた
          が、長禄三年(1459)に幕府から赦免され、管領細川勝元の仲介により筒井城へ復帰した。
           翌寛正元年(1460)、将軍足利義政は義就を失脚させ、病死した弥三郎の弟の政長を召し出した。
          光宣・順永兄弟は幕府から義就追討を命じられ、大和国内を転戦した。文正元年(1466)、吉野に
          蟄居していた義就は、山名宗全らの支援を受けて挙兵し、筒井城を攻囲した。順永らは城を棄てて
          落ち延び、義就は大和を席巻して上洛を果たした。しかし、翌二年(1467)に政長・勝元が挙兵した
          ことで、応仁の乱が勃発した。光宣は、勝元の側近として上洛し、東軍の中心人物の1人となった。
          大和国は乱の舞台の1つとなって混乱を極めたが、文明八年(1476)に順永が死去した時点では、
          筒井城は再び筒井氏の居城に戻っていたようである。
           翌文明九年(1477)、義就が河内制圧に乗り出したのを機に、義就方の家栄や胤仙の子澄胤が
          筒井城を攻め落とした。順永の跡を継いでいた子の順尊は幾度となく筒井城奪回を試みたが、成功
          することなく長享三年(1489)に京で没した。
           順尊の子順賢は、家栄と澄胤の反目に乗じて越智氏と和解し、永正二年(1505)に家栄の孫娘を
          娶った。翌三年(1506)には、澄胤と結んだ細川政元の武将赤沢朝経が大和へ侵攻した。筒井城も
          戦場になったと思われるが、詳細は不明である。
           翌永正四年(1507)に政元が暗殺されると、筒井・越智氏ら大和国人衆は一挙反撃に転じ、朝経を
          討ち取った。しかし、政元の養子澄元が朝経の養子長経を送り込むと、順賢らは敗れて河内へ落ち
          延びた。翌五年(1508)、河内守護畠山尚順や細川高国に支援された順賢は、朝経・澄胤らを討ち
          取って筒井城に復帰した。順賢の甥順昭の代には、大和一円を支配するほどに勢力を拡大したと
          される。
           天文十九年(1550)、順昭は若くして急死し、わずか2歳の子藤勝が跡を継いだ。このとき、順昭は
          自分とよく似た盲目僧の木阿弥(黙阿弥とも)を用意し、数年にわたって影武者を務めさせたと伝え
          られる。藤勝の成長後、木阿弥は元の僧に戻され(用済みとして放り出されたとも)、この故事から
          「元の木阿弥」の語が生まれたとされる。
           永禄八年(1565)、多聞山城主松永久秀に急襲され、藤勝らは応戦する間もなく筒井城を捨てて
          落ち延びた。久秀は三好長慶の重臣として同二年(1559)から大和攻略を任されていたが、同七年
          (1564)に長慶が没すると、跡を継いだ三好義継および三好三人衆と対立し、独立勢力化していた。
          藤勝は、打倒久秀を掲げて密かに三人衆と結んでいたとされ、久秀の筒井城強襲は、機先を制する
          目的で行われたものと考えられる。
           翌永禄九年(1566)六月、久秀が堺を包囲している隙に、藤勝は筒井城を奪回した。この後、藤勝
          は藤政、ついで順慶と改名した。
           永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、足利義栄を擁していた三好三人衆は
          京を逐われた。久秀はいち早く信長に通じ、大和については久秀の切り取り次第とするお墨付きを
          得た。これにより、筒井方から久秀側に寝返るものが続出し、久秀は同年十月ついに筒井城を攻め
          落とした。
           しかし、その後も大和国は松永一色とはならず、順慶は叔父の福住順弘とともに、着実に地固めを
          行っていった。元亀二年(1571)、順慶は辰市城の戦いで久秀軍に大勝し、再び筒井城を回復した。
          同年中、順慶は信長に臣従し、久秀とも和議を結んだ。このころ、いわゆる信長包囲網が形成される
          なかで、信長にとっても大和に隠然たる影響力をもつ筒井氏を傘下に収めることにはメリットがあった
          と考えられる。逆に、久秀は翌三年(1572)に信長包囲網に加わって反旗を翻したが、大和切り取り
          次第を反故にされたことが原因の1つとなったとも推測される。
           久秀は信長に一度は降ったが、天正五年(1577)に再び反旗を翻し、信貴山城の戦いで自害した。
          こうして事実上の大和国主となった順慶は筒井城の改修にとりかかったとされ、同七年(1579)には
          多聞山城の石材を筒井城に転用したともいわれる。
           翌天正八年(1580)、信長は大和一国破城令を発し、順慶に対して居城以外の城の破却を命じた。
          順慶は筒井城を廃城とし、郡山城を新たな居城に定めた。


       <手記>
           筒井城は、大和郡山駅から1駅南の筒井駅の東側一帯にありました。主郭は、字「シロ畑」と呼ば
          れる畑地となっています。付近に石碑があるようなのですが、見落としてしまいました。シロ畑のすぐ
          西には吉野街道が縦走しており、シロ畑脇でわずかに鉤字に屈曲しています。当初は街道に面した
          単郭の館城であり、後に街道を取り込んだ惣構をもつ城になったと推測されています。
           縄張りについてはいくつか説があるようですが、断片的に見られる遺構を繋ぎ合わせた限りでは、
          二重の濠に囲まれた城であったことでは一致しているようです。シロ畑の東側に位置する菅田比売
          神社の南辺には土塁が、東辺には堀跡が残っており、ここが主郭の東端とみられています。ただ、
          神社境内はシロ畑より1段高くなっているので、主郭内部も上下段に分かれていた可能性があると
          思われます。
           最も明瞭な遺構は、外郭北辺のものと考えられている堀跡です。集落の北端に、宅地になるでも
          畑地になるでもなく、また竹藪になるでもなく、ただペンペン草に覆われた凹地状の堀跡が静かに
          横たわっており、集落の方々がいかに筒井氏の旧跡を守って来られたかが分かります。
           筒井城は、戦国大名の居城としては稀に見るほど数多の戦火を経験した城です。確かに、筒井は
          奈良盆地から東西南北へ向かう街道の結節点にあり、常に畿内の情勢に左右され続けた大和の
          国情を鑑みれば、その重要性は群を抜いています。他方で要害性という点をみると、東に佐保川が
          流れているほかはまったくの平野のなかにあり、はっきりいってゼロに近いといっても過言ではない
          でしょう。すなわち、経略上重要であっても、防衛上は極めて弱い城であったがために、奪い奪われ
          を繰り返し、1城に絞れといわれた際には捨てられる運命となったものと考えられます。

           
 筒井城主郭跡とされる字「シロ畑」のようす。
菅田比売神社境内の土塁跡。 
 同神社東辺の堀跡。
外郭のものとみられる集落北辺の堀跡。 
 同じく集落南東の堀跡。
シロ畑西側を縦走する吉野街道。 


BACK