楽田城(がくでん) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 織田久長 | |
遺構 : 土塁 | |
交通 : 名鉄小牧線楽田駅徒歩3分 | |
<沿革> 尾張国又守護代織田大和守久長によって、永正元年(1504)ごろに築かれたと伝わる。 久長の子敏定は、応仁の乱後の文明十年(1478)に幕府から尾張守護代を拝命し、元の 守護代である織田伊勢守敏広と対立した。同年ごろ、敏定は敏広を追い落として守護所を 清洲城へ移し、敏広は岩倉城を築いて移り住んだ。敏定と、その跡を継いだ寛定・寛村 兄弟(同一人物とも)は、いずれも永正元年以前に死没している。すなわち、伝承が正し ければ、楽田城は久長の曽孫にあたる寛定の子達定の代に築かれたことになる。久長の 隠居城と見ることも可能とは思われるが、築城の経緯には疑問が残る。 久長の後は、敏定の弟とされる織田常寛が継いだといわれる。ただし、常寛はいわゆる 清洲三奉行の1つ織田藤左衛門家の祖で、小田井城主を務めている。 永禄元年(1558)、織田信長の従弟にあたる犬山城主織田信清が、浮野の戦いに際し 楽田城を攻略した。当時の楽田城主は、常寛の子で小田井城主織田寛故の弟の寛貞と いわれる。小瀬甫庵の『遺老物語』には、このとき城中に高さ2間余の垣を築き、その上に 5間7間の矢倉を作り、中央に矢を立て並べた八畳敷の2階座敷を設けた「殿守」があった とあり、これが「天守」に通じる高層建築の最古の記述ともいわれる。 永禄五年(1562)、信清は信長に反旗を翻したが、同七年(1564)に犬山城を逐われた。 この間に楽田城も攻め落とされたものとみられ、信長家臣坂井政尚が城将となった。政尚 と嫡男久蔵が元亀元年(1570)に相次いで戦死すると、 梶川高盛が後任に就いた。 天正十二年(1584)のの小牧・長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉は犬山城に入城した 後、楽田城へ移って指揮を執った。最終的には、より前線に近い久保山砦を本陣としたと される。同年十一月に講和が成立すると、楽田城は廃城となった。 <手記> 楽田城は低地の中の小丘に築かれた城だったようで、今は楽田小学校となっています。 北西隅付近の図書館前に石碑や説明板があり、その西側は2mほど下がっていることから、 土塁跡とみられます。 学校のすぐ北には須賀神社があり、こちらも別個に周囲より1段高くなっているのですが、 城域に含まれるのかは不明です。ただ、入口の須賀神社の石碑には、楽田城小城址との 刻印も入っています。 楽田城については、まず築城の経緯が論点となるかと思います。上述の通り、永正元年 に久長が築いたとすると、久長は孫より長生きだったことになります。あり得ないとまでは いえませんが、曽孫の代になって清洲から離れた楽田に城を築いて移るというのは、必然 性に欠けるというのが私見です。 次に、やはり楽田城に天守の原型があったか否かが大きな論点でしょう。これについて は、私はやはり眉唾に感じます。なにより出典がフィクション作家の小瀬甫庵にのみ拠って いるというのは、説得力に欠けていると言わざるを得ないでしょう。支持する意見によれば、 楽田城は平城であり、濃尾平野の城はいずれも眺望に欠けるため、物見として高層建築が 発展したといわれています。しかしながら、楽田城はすぐ近くに100mや200m級の山があり、 これらに物見台や出城を設ければ眺望は充分に利きます。したがって、仮に天守の前史と して平野部の平城に高層建築が建てられる蓋然性があったとしても、楽田城は優先順位の 面でその端緒たる可能性は低いように思うのです。つまり、楽田城にそのような高層建築 が必要となるのなら、それ以前に清洲城や岩倉城など木曽川流域の平野部の平城に設け られていて然るべきではないかというのが、私の考えです。 |
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楽田城址碑。 | |
城址碑の西側斜面。土塁跡か。 | |
小学校北東隅付近のようす。 | |
1段高いところに鎮座する須賀神社。 城域に含まれるかは不明です。 |
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須賀神社の碑。 「楽田城小城址」と刻まれています。 |