松江城(まつえ)
 別称  : 千鳥城、末次城
 分類  : 平山城
 築城者: 末次氏
 遺構  : 天守、石垣、堀、井戸
 交通  : JR山陰本線松江駅よりバス
      「県庁前」バス停下車


       <沿革>
           松江城のある亀田山には、もともと在地領主末次氏の末次城があった。末次氏は、佐々木氏の
          分流富田氏の庶流で、鎌倉時代前期に分かれたとされる。ただし、末次城がいつごろ築かれたの
          かは定かでない。
           時期は詳らかでないが、尼子氏と毛利氏の戦いのなかで、末次城は毛利元就によって攻め落と
          された。末次城の北にある白鹿城が陥落した永禄六年(1563)前後のことと推測される。その後、
          元就の八男元康が末次城に入り、末次氏を称した。同十一年(1568)、椙杜氏を継いでいた元康
          の兄元秋が月山富田城在番を命じられて富田氏を称すると、元康は元秋の跡を追って椙杜氏を
          継承した。さらに、天正十三年(1585)に元秋が急死すると、元康は月山富田城主も引き継いだ。
          この間の末次城については不明だが、後に堀尾氏が松江城を築く際に、一般に「亀田山」に選地
          したとされているため、元康の月山富田移封ごろまでには廃城となっていたものと推測される。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功により、堀尾忠氏が出雲・隠岐24万石に封じられた。
          はじめ月山富田城に入ったが、中世的な山城であるうえに領国の南東に寄り過ぎていたため、
          同九年(1604)に新城築城を決意した。『松江亀田山千鳥城取立之古説』によれば、忠氏とその
          父吉晴は意宇郡乃木村の元山(現在の松江市上乃木の床几山)に登り、宍道湖対岸の島根郡
          の山々を見渡し、忠氏は亀田山を、吉晴はその西隣の洗合山を新城地に推した。しかし、結論が
          でないまま同年中に忠氏が若くして急死してしまった。吉晴はこれを大いに嘆き、自身は築城の
          名手と謳われながらも、忠氏の推した亀田山に城地を定めた。
           慶長十二年(1607)に着工し、同十六年(1611)の冬に一応の完成をみた。だが吉晴もまた、
          落成直前の同年六月に没していた。家督は忠氏の死後その子忠晴が継いでいたが、寛永十年
          (1633)に忠晴は嗣子なく没し、堀尾家は無嗣改易となった。
           翌寛永十一年(1634)、京極忠高が堀尾家の遺領を引き継ぎ、小浜城から移った。直接の関連
          はないが、京極氏は室町時代に出雲・隠岐守護職にあり、松江城の前身末次城を築いた末次氏
          とは同族である。忠高は同十四年(1637)に嗣子なく没し、京極家も除封された(後に忠和の甥の
          高和が6万石に減知のうえ播磨龍野藩主となった)。忠高の時代に、山麓の三の丸が整備された
          とされる。
           翌寛永十五年(1638)、松平直政が信濃松本から18万石で松江城に入った。直政は、徳川家康
          の二男秀康の三男にあたる。以後、松平家が10代を数えて明治維新を迎えた。

          
       <手記>
           山陰地方唯一の現存天守である松江城天守は、その無骨で古風な姿が実に魅力的です。内部
          に入ってまず驚かされるのが、天守内に井戸があることです。見かけだけでなく、実際に実用性を
          追及して建造された天守であることが分かります。古式な天守であることは、構造からもうかがえ
          ます。登っていくと、上層階の骨組みが、下層の建物の上に乗っかるような形で組まれているのが
          見てとれ、望楼式天守の典型であることが分かります。
           松江城天守の特徴は、下層階が実用に徹しているのに対して、乗っかっている望楼の上層階は
          優美性を重視している点にあると思われます。下層階は井戸のほかにも石落としが2階に設けられ
          ていたり、内部を窺いにくい壁になっていたりと実戦本位。そして上層階は、華頭窓のついた千鳥
          破風や最上階の廻縁など、戦闘とは無縁の装飾が目につきます。下層階が黒下見板張りなのに
          対して上層階が漆喰白壁というのも対照的です。こうした、無骨さと華麗さが見事に融合している
          点が、松江城天守の美しさを際立たせているものと思われます。
           松江城には、残念ながら逆に天守以外の建物は残っていません。二の丸には、平成十三年(20
          01)に南櫓・中櫓・太鼓櫓の3基と、それに付随する塀が復元されています。これらは、発掘調査の
          結果や絵図面、古写真ならびに当時の大工頭の木割図を基にしており、平成の復元ブームのなか
          でも、もっとも忠実なものの1つであるといえます。たとえば、南櫓2階は城下方面の窓では座って
          外を監視することができる高さであるのに対して、城内側の窓は立たなければ外を見ることができ
          ません。このような同一平面内の違いは、推定復元では表現不可能といえます。
           このほかにも本丸一の門や、県庁となっている三の丸と二の丸を結ぶ木橋などが、建造物として
          再建されています。このうち、三の丸の橋は、当時は廊下橋であったとされています。
           松江城は、周囲を水濠で囲まれ、完全な独立丘のようになっています。しかし、これはかつて地
          続きであった北面を開削したためで、その堀沿いは塩見縄手と呼ばれる細い武家屋敷通りとなって
          います。その一画に、かの小泉八雲の旧宅があります。塩見縄手は城の真裏の武家屋敷街なの
          ですが、すでに周辺は緑豊かで閑静な雰囲気を醸し出しており、狐につままれたりしたとしても、
          何の不思議もないところです。この閑かさは松江の町全体にいえることで、不昧公こと松平治郷が
          育んだ文化都市の気風が、今なお息づいているように感じます。
           さて、松江城には「ぎりぎり井戸」をはじめ、人柱や難工事にまつわる逸話が数多く残っています。
          とくに、他の城に比べて人柱関連の話が多めに伝えられているように感じるのは、八雲が積極的に
          拾い集めたというのもあるのでしょうが、松江築城における治水土木工事が、いかに困難かつ重要
          であったかを物語っているように思われます。
           松江城天守について、地元では現在国宝登録へ向けた活動が行われているようです。私としても、
          松江城天守はかねてより他の国宝4天守と比べても遜色ない価値をもっていると思っていましたが、
          その思いは実際に訪れてみてより強くなりました。

           
 松江城天守。
天守を側背方向から。 
 天守からの眺望。
二の丸越しに天守を望む。 
中央左手の櫓は南櫓。 
 県庁となっている三の丸隅の石碑と二の丸南櫓。
三の丸と二の丸を繋ぐ復興木橋。 
かつては廊下橋だったとされています。 
 復元二の丸南櫓。
同復元中櫓。 
 同復元太鼓櫓。
復元一の門。 
 本丸北の門跡。
水の手門跡。 
 ギリギリ井戸跡標柱と水の手門跡石垣。
馬洗池。 
 主城域北端の鎮守城山稲荷神社。
稲荷神社の石狐群。 
 亀田山西側の内堀。
同じく内堀と遊覧船。 
 塩見縄手のようす。
復元北惣門橋と二の丸下の段石垣。 
 二の丸下の段の米蔵跡(基壇地表復元)。
大手門前の馬溜。 
通常より広い桝形で、内部に井戸が2基ありました。 


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