月斎館(げっさい) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 田村月斎か | |
遺構 : 曲輪、土塁 | |
交通 : JR磐越東線三春駅からバスに乗り、 「三春病院」下車徒歩5分 |
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<沿革> 三春城の支城とみられるが、詳細は不明である。城名の由来とみられる田村月斎 顕頼は、三春城を取り立てた田村義顕の弟とされ、謀略に優れて田村家中で重きを 成し、「畑に地縛り、田に蛭藻、田村に月斎無けりゃよい」と恐れられたといわれる。 天正十四年(1586)に義顕の孫清顕が男子なく没すると、家中は月斎ら親伊達派 と、大越顕光・郡司敏良らの親相馬派に分裂した。天正十六年(1588)、清顕の義甥 にあたる相馬義胤が、親相馬派の手引きで三春入城を図ったが、月斎がこれを銃撃 して阻止したとされる。月斎は翌十七年(1589)の伊達政宗による須賀川城攻めにも 参加したとされるが、その後の動静は不明である。 そもそも、月斎の父とされる田村盛顕の没年は長享元年(1487)と伝わり、この年 に生まれたとしても、義胤銃撃時点ですでに100歳を超えていたことになる。実在した かどうかも含めて、謎の多い人物であることは疑いない。 <手記> 月斎館は三春城の北向かいにあり、重要な出城であったものと思われます。特別 養護老人ホームあぶくま荘の西端から散策路が整備されており、訪城は容易です。 また、南東麓の光岩寺裏手の墓地からも登れるようです。 山頂の主郭を中心に多くの腰曲輪を配置し、堀は見られないものの主郭の切岸は 高く見事です。ひとつ西側の峰にも曲輪群が広がっているそうですが、こちらは竹藪 に埋もれて薄暗く、踏査は断念しました。 遺構の保存状態もよい月斎館ですが、それ以上に気になるのが、田村月斎顕頼と いうミステリアスな存在です。上述のように、出自から事跡まですべてを額面通り受け 取るのは無理があるでしょう。顕頼の兄とされる義顕についても永禄四年(1561)の 没とされ、父の死後74年もの間存命だったことになります。あり得ないとまではいえま せんが、さすがに不自然であり、盛顕の没年が誤っているか、盛顕と義顕・顕頼兄弟 の間に1〜2代抜けていると見るべきではないかと思われます。 この場合でも、田村義顕・隆顕・清顕3代の享年によっては義胤銃撃時点で相当な 高齢になる可能性があります。あるいは、顕頼と月斎は2代の別人であるということも 考えられるかもしれません。 |
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月斎館散策路入口。 | |
主郭の切岸。 | |
同上。 | |
主郭北西の腰曲輪。 | |
主郭のようす。 | |
同上。 | |
主郭南西下の腰曲輪群。 | |
同上。 | |
腰曲輪の1つ。 | |
ひとつ西側の峰のようす。 |