後藤氏館(ごとうし)
 別称  : 後藤館
 分類  : 平城
 築城者: 後藤氏
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR東海道本線・近江鉄道八日市線近江八幡駅
       よりバス「羽田西」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           六角家重臣後藤氏の居館である。近江後藤氏の出自は定かでなく、いつごろこの地に居住し、
          館を築いたのかも不明である。六角義賢に仕えた後藤賢豊のときに、後藤氏は木浜城主進藤
          貞治とともに「六角氏の両藤」と呼ばれ重きを成した。しかし永禄六年(1563)、賢豊は義賢の子
          義治によって、観音寺城で子の壱岐守とともに殺害された(観音寺騒動)。
           後藤氏の家督は賢豊の次男高治が継いだ。高治は、永禄十一年(1568)に織田信長によって
          六角氏が滅ぼぼされると、織田氏に臣従した。しかし、天正十年(1582)の本能寺の変に際して
          明智光秀に与し、所領を逐われて蒲生氏に仕えた。遅くともこのときに、後藤氏の館は廃された
          ものと考えられる。


       <手記>
           後藤氏館は、北の瓶割山、西の雪野山、東の布施山に囲まれた肥沃な平野の中にあります。
          一見して、後藤氏が六角家中で力を持っていたことがうかがえる地勢です。
           現在、館の北と東の土塁と堀跡が良好に残り、単郭方形の館のようすがよく分かります。近江
          は在地領主の権力や自立性の強い土地であったことが指摘されてきましたが、実際の在地領主
          の館跡は、圃場整備や宅地化によりほとんど残っていません。そのようななかで、この後藤氏館
          は奇跡的に主要部分の遺構が明瞭に残っていて、貴重な史跡であると思われます。

           
 後藤氏館東方の土塁と堀跡。
北方の土塁と堀跡。 


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