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八堂城(はちどう) |
別称 : 福武山城、八堂山遺跡 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 石川越前守か | |
遺構 : 削平地、土塁跡か | |
交通 : JR予讃線伊予西条駅からバスに乗り、 「福武沢」下車徒歩25分 |
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<沿革> 八堂山には弥生時代の高地性集落が営まれていた。高地性集落は麓から比高差のある 山上などに形成された先史時代の集落であり、ほとんどが瀬戸内や近畿に集中している。 農耕が普及した弥生時代にあって、わざわざ高地に集落が築かれるのは軍事的な理由が 大きいと考えられている。 八堂城については、『河野分限録』にみえる高峠城主石川通清の御付人・石川越前守の 福武山城に比定する説があるが、確証はない。八堂山遺跡からは、室町時代の土鍋片や 鉄鏃が出土している。 <手記> 八堂山は西麓を加茂川が洗う標高196mの縦長の山で、川向こうの高峠城山にも高地性 集落が存在したとされています。中腹には市民の森や考古歴史館があり、駐車場も遺跡の すぐ下に完備されていました。 頂部の遺跡も史跡として整備され、近年まで竪穴住居が復元されていましたが、歴史館の 方のお話では萱を葺ける人も減り、維持が困難となったため撤去されたそうです。整備区域 から少し離れた北東側には、2段に削平された地形が見受けられます。史跡とは関係がない ように思われるため、元からあった地形とすれば、城砦の遺構である可能性があるでしょう。 また、南側へ少し下ると電線鉄塔の脇に1号溝跡という石碑が建っています。現地説明板に よれば、尾根筋を横切る溝があったということで、これもどちらかといえば城の堀切と考えた 方が自然に思えますが、他方で溝の中からは弥生土器や石器、貝類などが検出されたそう です。頂部の北側斜面にも竪穴建物が散在していたようですが、遺構らしきものは見当たり ませんでした。 先述の通り、考古歴史館にも立ち寄って職員の方としばし話をしましたが、やはりというか 城跡についてはご存じないようでした。ただ、私も紫雲出山遺跡など高地性集落はいくつか 訪れたことがあり、稲作が広まった弥生時代でなぜこのような集落が少なからず形成された のか、興味がありました。素人考えでは、紫雲出山遺跡と同様、やはり八堂山も瀬戸内海の シーレーン監視が主な目的ではないかと思っています。この私見をお伝えしたところ、職員の 方も理解を示して下さり、現在の加茂川は江戸時代に付け替え改修が成されており、当時は 八堂山の麓から北へ乱流してすぐに河口部の浜や湿地になっていたと考えられているという お話をうかがいました。そうなると、八堂山が燧灘の交易ルートと港を押さえる要地であった というのも、首肯できるのではないでしょうか。 |
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北西から八堂山を望む。 | |
山頂のようす。 | |
山頂の八堂山遺跡の石碑と説明板。 | |
復元竪穴住居があった跡。 | |
1号溝跡。 | |
山頂北東側の段築地形。 土塁および削平地跡か。 |
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同上。 | |
山頂北側斜面の竪穴住居跡。 | |
山頂から高峠城跡を望む。 | |
考古歴史館から燧灘方面を望む。 |