当目砦(とうめ)
 別称  : 遠目砦
 分類  : 山城
 築城者: 武田信玄
 遺構  : 曲輪跡か
 交通  : JR東海道線焼津駅徒歩30分


       <沿革>
           永禄十三/元亀元年(1570)に花沢城を攻め落とした武田信玄によって、当目坂の
          守りとして築かれたとされる。初代城将には屋代正国が入れられたといわれる。
           天正七年(1579)、駿河へ攻め入った徳川家康軍は、当目砦付近で持舟城の軍兵
          と合戦に及んだ(当目合戦)。徳川軍は武田軍を破って持舟城をも奪取した。翌八年
          (1580)には武田勝頼が持舟城を奪還しているが、当目砦のその後については詳らか
          でない。


       <手記>
           当目砦は、浜当目に細く伸びる尾根上にあったとされています。南西端のトンネルの
          南側出口脇から、かんぽの宿手前のカーブ脇まで遊歩道が通じているので、歩くのは
          難しくありません。
           ただ、正確な砦の位置はいまだ確定していないようで、大きく上の地図にある70mの
          三角点と、それよりも尾根先とする2説があります。このうち尾根先の方は、柑橘畑に
          なっていて城の造作らしきものは見当たりませんでした。
           一方、三角点のあるピークは一応頂部が平らになっていて、東側付近は人工の切岸
          に見えなくもありません。また、西側斜面の途中には、腰曲輪のように削られた平場も
          見受けられます。
           このように、個人的には三角点のピークが砦跡ではないかと睨んでいるのですが、
          いずれにせよはっきり言えるのは、大した規模の城砦ではないということです。防衛の
          拠点とするなら、落とすのに14日も要した花沢城をそのまま使えばよいと思われます
          が、こちらを武田軍が取り立てたようすはありません。花沢城に匹敵するような遺構が
          見られない以上、当目砦の役割はきわめて限定的であったと考えるべきでしょう。
           個人的には、信玄が駿河の制圧を完了するまでの間、当目坂から大崩越えを抜けて
          持舟城に至るルートを監視する目的で築かれた、臨時の小砦であったものと推察して
          います。当目合戦のころには、すでに廃されていたか、残っていたとしても監視所程度
          ではなかったかと感じました。

           
 花沢城跡八ノ曲輪跡から当目砦跡を望む。
三角点のあるピークのようす。 
 ピーク東側斜面。
ピーク西側斜面にある腰曲輪状の平場。 
 ピークより前方の尾根先のようす。


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