花沢城(はなざわ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 今川義元か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR東海道線焼津駅からバスに乗り、
      「高草山石脇入口」下車徒歩20分


       <沿革>
           天文五年(1536)の花倉の乱を制した今川義元によって、駿府への入口を押さえる
          拠点として築かれたと考えられている。今川一門の関口氏録が城主となったとされる
          が、氏録の後継の親永は持舟城主となっており、氏録以後の扱いについては詳らか
          でない。
           永禄十一年(1568)に武田信玄が駿河国へ侵攻して駿府を占領すると、花沢城は
          今川方の最前線となったとみられる。今川氏真は翌十二年(1569)に北条氏を頼って
          落ち延びたが、花沢城では今川家臣大原資良が籠ってなおも抵抗を続けた。資良は、
          三河吉田城代を務めた小原鎮実と同一人物とされる。資良が同年以前から花沢城主
          であったのか、あるいはこのときに今川家残党を糾合して花沢城に入ったのかなど、
          詳細は定かでない。
           翌永禄十三年(1570)正月、武田軍が花沢城を包囲し、同月四日から攻城戦が開始
          された。城方は大木や大石、熱湯や熱砂を浴びせて激しく抵抗した。戦いは14日間に
          及んだが、ついに開城して資良らは高天神城へ落ち延びた。戦後、花沢城はそのまま
          廃城となったものと推測される。


       <手記>
           花沢城跡は日本坂トンネルを抜けてすぐのところにあり、高草山の支峰ではあるもの
          の、半ば独立した形となっています。この半独立丘をまるごと利用して築かれた比較的
          規模の大きな城で、今川氏の拠点城の様子を今に伝える貴重な城といえます。城山の
          北麓に、日本坂峠入口の伝統的建造物群保存地区「花沢の里」観光用の無料駐車場
          があるので、車の場合はそちらを利用できます。
           花沢の里とは反対側に歩いて鞍部に差しかかれば、案内が出ているので迷うことは
          ないでしょう。花沢城の曲輪の呼び方は、「〇ノ曲輪」と数字で呼ぶところではたいがい
          一致しているのですが、数字の配置が出典によって少しずつ違っているようです。ここ
          では、焼津市の公式パンフレットに載っている数字に依拠します。
           一ノ曲輪周辺は果樹園だったものとみられますが、焼津市による「花沢城活用推進
          事業」が進められているとのことで、史跡公園のようになっています。まだ、整備は中途
          のようで、藪に埋もれている曲輪もありますが、かなり見やすくなっているのは間違い
          ないでしょう。
           城の構造は、一〜五ノ曲輪までが比較的固まっていて、一と二ノ曲輪の間の堀切は
          とりわけ見ごたえがあります。一方、六〜九ノ曲輪はそれぞれ独立した出丸で、全山を
          要塞化している構造がうかがえます。南西端に位置する八ノ曲輪は木が切り払われて
          眺望スポットとなっています。武田の大軍を相手に2週間耐えたのですから、名実とも
          に堅城と呼んで差し支えないでしょう。

           
 一ノ曲輪の切岸。
一ノ曲輪のようす。 
 一ノ曲輪の土塁。
一ノ曲輪から堀切越しに三ノ曲輪を望む。 
 一ノ曲輪と二ノ曲輪の間の堀切。
二ノ曲輪のようす。 
 二ノ曲輪下の腰曲輪。
六ノ曲輪のようす。 
 八ノ曲輪。
八ノ曲輪からの眺望。 
 登城口近くの墓地上にある九ノ曲輪跡。


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