花輪城(はなわ)
 別称  : 桐ケ谷城、花輪塁
 分類  : 平山城
 築城者: 平本氏か
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : 流鉄流山駅徒歩10分


       <沿革>
           小金城主高城氏重臣田島時定の妹婿の平本主膳定虎が城主であったと伝わる。また、
          高城胤吉の家臣花輪淡路守が築いたとする伝承もあり、築城の経緯は定かでない。
           定虎の後裔と推測される主膳定勝は、小田原の役による主家没落後の慶長年間(1596
          〜1615)に、江戸川対岸の三輪之江村の新田開発に尽力し、定勝寺を開基した。同寺の
          寺伝によれば、定勝の父は定久とされる。定虎を定久の父とすれば、年代的には辻褄が
          合うが、詳細は不明である。


       <手記>
           花輪城は、江戸川に沿って北から細長く伸びた台地の先端に位置しています。伝承では
          花輪淡路守の名が挙がっていますが、当時の文献からは花輪の地名は確認できないそう
          です。したがって、伝承上の花輪氏が実在したかは微妙なところです。ただ、定虎が時定
          の義弟とすれば、胤吉の家臣とされる淡路守とは一代分くらいの年代差があると思われ、
          定虎が花輪氏を駆逐したか跡を継いだ可能性もないとはいえません。
           現在、台地の先端部分が城址公園となっています。県道沿いの立派な石碑に比べて、
          内部はこじんまりとした空間になっています。かつてここには、琵琶首観音堂というお堂が
          ありましたが、老朽化によって近年解体されたそうです。お堂跡のすぐ裏手に、堀・土塁と
          土橋がセットで残っています。峰先側には、一段高くなった四阿があり、園内の説明板の
          地形図には櫓台ないし土塁のように書き込まれているため、これも遺構であると思われ
          ます。
           このように、観音堂跡周辺だけでも城としての体裁は一応整っているように見えますが、
          この部分だけではあまりに狭く、とても籠城の用には耐えられません。おそらくより付け根
          側に、もう1郭ないし2郭続いていたものと思われますが、今では墓地や浄水施設などと
          して開発されており、確認は困難です。
           直感的には、同じ流山市内の前ヶ崎城に地形が似ており、高城氏の支城として小田原
          の役まで使用されていたものと考えられます。

           
 南側から花輪城址を望む。
県道沿いの城址公園の碑。 
 空堀。
空堀と土橋。 
 土塁と説明板。
櫓台状の高まり(を利用した四阿)。 
 観音堂跡。


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