花園城(はなぞの)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 藤田政行か
 遺構  : 曲輪、土塁、石積み、堀、虎口
 交通  : 秩父鉄道・JR八高線寄居駅徒歩30分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』によれば、藤田五郎政行によって築かれたとされる。藤田氏
          は武蔵七党の1つ猪俣党庶流で、猪俣政家の次男である五郎政行は、その初代である。
          政行の娘は秩父平氏の有力支族である江戸重長に嫁いでおり、それなりの実力者で
          あったものと思われるが、当時の新規開発領主がいきなり山上の城郭を構えるとは考え
          にくい。山麓に居館を構えた可能性はなくもないが、築城者とするのは疑問が残る。
           政行の子行康は源平合戦に源氏方で参戦して討ち死にし、その子能国は承久三年
          (1221)の承久の乱に際して院宣を読み上げる文博士を務めた。
           応安元年(1368)の武蔵平一揆の乱において、藤田能員が関東管領上杉憲顕方に
          属して鎮圧に当たり、戦後比企郡内に領地を与えられた。花園城が築かれたのは、早く
          ともこのころと思われる。
           文明八年(1476)に勃発した長尾景春の乱に際しても、藤田氏は関東管領山内上杉
          氏側に留まった。このとき、長尾景春は藤田郷の目と鼻の先の鉢形城で挙兵しており、
          最前線にあたる花園城は、このときまでには築かれていたものと推測される。
           天文十五年(1546)の河越夜戦によって扇谷上杉氏が滅亡し、北条氏の勢力が拡大
          すると、藤田重利は同氏に降り、北条氏康の四男乙千代丸を養子に迎え入れた。当時
          の藤田氏の居城は一般に天神山城とされるが、一説には花園城であったともいわれる。
          乙千代丸は元服すると氏邦と名乗り、重利も康邦を改名した後用土城へ移り、用土氏
          を称した。永禄七年(1564)ないし同十二年(1569)に、氏邦は居城を鉢形城へと移し、
          花園城はその有力支城となった。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際し、鉢形城とともに落城したとされる。同役の
          終結とともに花園城はそのまま廃城となったものと思われるが、詳細は不明である。


       <手記>
           花園城は、荒川に沿って細長く突き出た峰の先端部を利用して築かれています。城と
          荒川の間には秩父往還が走り、交通の要衝でもあります。地形的にも交通的にも、まさ
          に城郭が築かれるためにあるような地勢ですが、残念ながら訪れやすさという点では、
          整備が行き届いているとはいえません。城跡へは、南麓の諏訪神社ないし善導寺から
          登ることができますが、どちらも途中で明確な道はなくなってしまい、あとは勘を頼りに
          進むしかなくなります。個人的には、諏訪神社からのルートをおすすめします。
           花園城の構造は、頂部先端の一の郭から順番に、東側に向かって4つの曲輪を配置
          した、オーソドックスな連郭式を基調としています。4つの曲輪間と最後尾にはそれぞれ
          深い堀切が穿たれ、さらにそのまま南麓へ竪堀となって続いています。竪堀の一部は、
          下方で二股に分かれた二重竪堀となっています。これら4本の堀切がとにかく豪快で、
          花園城最大の見どころといえます。
           三の郭には規模の大きな桝形虎口が残り、その脇では堀に鉤字の折れがみられる
          など、最終改修者が北条氏であることをうかがわせる遺構が見受けられます。他方で、
          一の郭西側の堀は横堀となっており、外郭線に横堀を用いる山内上杉氏の築城術の
          特徴(私見ですが)も残されています。
           もう1つの特徴は、二の郭や中腹の腰曲輪などに散在して残る石積みです。これらは
          岩盤を割って堀切を穿った際の石材を用いたものと思われ、片岩を平積みしたものと
          なっています。
           城山の南側斜面には、かなりの数の削平地が並んでいます。兵の駐屯スペースと
          してつくられたのかもしれませんが、一〜四の郭までの全ての山腹に、あまりに雑然
          かつまんべんなく段々に設けられているため、大部分は後世に畑地として開墾された
          のではないかと思われます。
           登城口のある諏訪神社境内は、2・3段に削平されており、山麓居館が営まれていた
          とも考えられます。ただ、館跡とするにはやや狭小な気もするので、あるいは藤田氏の
          菩提寺であった善導寺周辺が居館址であったとも思われます。
           余談ですが、関越自動車道花園ICとその周辺は、かつて花園町という自治体でした
          が、花園城は旧花園町境から3qも離れており、旧町内にも「花園」という地名はあり
          ません。なぜ旧花園町がその名を冠したのか、どうにも謎です。おかげさまで、花園IC
          から花園城址までは、寄居市街地を抜けて行くので結構時間がかかります。


           
 一の郭に立つ城址碑。
一の郭北辺の虎口。 
 
 二段に削平された一の郭。
一の郭西辺の横堀。 
 一の郭下の竪堀。
一の郭と二の郭の間の堀切。 
 二の郭の石積み。
二の郭の土塁。 
 二の郭と三の郭の間の堀切。
三の郭の桝形虎口。 
 三の郭のようす。
三の郭下の横堀。 
 三の郭と四の郭の間の堀切。
四の郭のようす。 
 四の郭東(城内最後尾)の堀切。
堀切から続く竪堀。 
 中腹削平地の石積み。
中腹の二重竪堀。 
 削平地群の1つ。
諏訪神社境内の削平地。 


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