天神山城(てんじんやま)
 別称  : 白鳥城、根小屋城
 分類  : 山城
 築城者: 藤田重利(康邦)
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口、土橋
 交通  : 秩父鉄道樋口駅徒歩30分


       <沿革>
           天文年間(1532〜55)、藤田重利によって築かれたと伝わる。天文十五年(1546)の
          河越夜戦によって北条氏の圧迫を直接受けるようになった重利は、まもなく北条氏康に
          降った。降伏の条件として、重利は氏康の四男乙千代丸を婿養子に迎えた。乙千代丸
          が元服して氏邦と名乗ると、重利は康邦と改名して天神山城を氏邦に譲り、用土城へ
          移って用土氏を称した。
           永禄七年(1564)ないし同十二年(1569)、氏邦は居城を鉢形城へ移した。天神山城
          は家老岩田対馬守義幸が城代として預かったといわれるが、詳細は定かでない。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際し、鉢形城とともに落城したと伝わる。おそらく
          そのまま廃城となったものと推測されるが、詳細は不明である。


       <手記>
           天神山城は、荒川の大きな屈曲部を形成する釜伏山系の北西端に細長くせり出した
          支峰を利用して築かれています。1970年代に、本丸に2層の模擬櫓が建てられたことで
          知られていますが、どうやら私が生まれたころにはすでに閉鎖となっていたようです。
           城跡へは、北西麓の白鳥神社背後から登山道があるので、難なく辿りつくことができ
          ます。櫓にも近づくことはできるのですが、庇は剥がれ天井は抜け、入るどころか今にも
          崩れ落ちそうなので、長居は無用です。2段構成本丸の周囲には竪堀が数本認められ、
          そのうち1つは二重竪堀となっています。
           本丸から大きな堀切を隔てた二の丸は城中最大の曲輪で、藪と化した平坦地にトイレ
          や簡易展望台などが産業遺物のように佇んでいます。その先に、張出したように三の丸
          があるのですが、南側から二の丸まではかつて車両が入っていたようで、車道によって
          二の丸・三の丸はかなり破壊されているようです。両曲輪の間に、1ヵ所石積みの跡が
          残っています。
           三の丸は周囲を横堀に囲まれた楕円形の曲輪です。本丸の北山腹にも横堀があり、
          城の最外郭に横堀を設ける縄張りは、山内上杉氏の築城術の特徴といえます。
           しばしば天神山城最大の見どころといわれるのが、二の丸の東側尾根に設けられた
          出郭群です。道はないので無理やり斜面を下りて行きます。技巧を駆使した北条流の
          粋のようにいわれることが多いようなのですが、私はその意見には懐疑的です。たしか
          にかなりの工事量ではありますが、よくよく見ると基本的には曲輪と横堀を3つほど繰り
          返し縦並びにした構造となっており、必ずしも技巧に技巧を重ねているとまではいえま
          せん。直感的には、山内上杉氏配下としての藤田氏が全精力を傾けて築いた城である
          という評価が妥当なように思います。

           
 仲山城から天神山城を望む。
本丸下段から模擬櫓を望む。 
 
 本丸周囲の二重竪堀。
同じく竪堀。 
 本丸北中腹の横堀。
本丸北中腹の腰曲輪と張り出し土塁。 
 本丸と二の丸の間の堀切。
二の丸のようす。 
二の丸と三の丸の間の石積み。
三の丸の横堀。 
 二の丸東尾根の堀切。
同じく出郭。 
 出郭の虎口。
出郭の横堀。 
 同じく出郭。
同じく横堀。 
 出郭群の土橋。


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