飯崎館(はんさき)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 飯崎氏
 遺構  : 土塁、堀、虎口か
 交通  : JR常磐線小高駅徒歩40分


       <沿革>
           相馬家重臣木幡氏の庶流飯崎氏の居館とみられている。木幡氏は藤原北家流で、
          元享三年(1323)に相馬重胤が奥州へ下向した際、これに同行したとされる。そのとき
          の惣領木幡範清の弟である政清およびその子胤清が、飯崎氏の祖とされている。
           文安二年(1445)、牛越城主牛越上総介定綱が相馬高胤に反旗を翻すと、胤清の
          子孫にあたる紀伊守胤秀もこれに同調した。飯崎氏を称し、飯崎館を築いたのは胤秀
          ともされるが定かでない。江戸時代に編纂された『相馬氏家譜』によれば、牛越・飯崎
          両城とも高胤に攻め落とされ、定綱は殺されて牛越氏も滅ぼされたが、胤秀は赦され
          たとされる。
           その後も飯崎氏は続いたが、相馬家がいったん改易となった慶長七年(1602)から
          中村城へ移転する同十六年(1611)までの間に、飯崎館は廃されたものとみられる。


       <手記>
           飯崎は小高の西に位置する舌状の広い台地の地域で、飯崎館はその南辺の一画
          にありました。現状は畑で、標柱や説明板など城跡を示すものはありません。
           館跡東側を下る農道の拡幅工事に伴い、2010年に発掘調査が行われ、その報告
          はネットの全国遺跡報告総覧でも見ることができます。それによると、発掘されたのは
          館の東端近くの部分で、現在重機を畑に上げるための道が付けられている少し南側
          から、堀跡が検出されたそうです。震災の影響か、私が訪れたときにちょうど工事が
          進行中でしたが、これにより堀跡は失われたものと見られます。畑の西側にも段差が
          見られ、館の区画の名残とも思われますが、断定はできません。
           畑地の先端側へ行くと、竹藪の中に土塁状の土盛りや麓へ下りる堀底道の痕跡が
          ありました。堀底道の付け根は虎口状になっているようにも見え、また、城内側の縁
          にも土塁の開口部のような地形が認められます。館のものとすれば、貴重な遺構と
          いえるでしょう。
           農道の東側の林にも掘り込まれた地形があり、一見城館遺構のように思えます。
          ただ、報告書によればこちらは古墳に伴う造作ということで、館に取り込まれていた
          かどうかはわかりません。

           
 飯崎館跡現況。
館跡畑地の西側の段差。 
遺構と関係があるかは不明です。 
 先端側の土塁状地形。
先端下の堀底道の付け根。 
 先端側の縁の虎口状開口部。


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