相馬中村城(そうまなかむら)
 別称  : 中村城、馬陵城、中村館、夫館
 分類  : 平山城
 築城者: 坂上田村麻呂
 遺構  : 門、曲輪、石垣、土塁、水濠、虎口
 交通  : JR常磐線相馬駅徒歩10分


       <沿革>
           相馬中村城の歴史は古く、延暦二十年(801)に坂上田村麻呂が現在の城の西部一帯に
          館を築き、菅原敬実に守らせたことにはじまると伝わる。12世紀末に源頼朝が奥州藤原氏
          を攻め滅ぼした際、その帰途で頼朝は菅原館に宿営したとも伝わる。ただし、頼朝が浜通り
          を通ったかは詳らかでないため、留保が必要と思われる。
           延元二年(1337)、中村朝高がこの地に館を築いたとされる。朝高は、結城宗広の一族で
          熊野堂城主の中村広重の縁者とみられる。時期は不明だが、戦国時代には黒木城の黒木
          氏の影響下に入っていたと考えられている。
           天文の乱さなかの天文十二年(1543)、中村大膳義房は実兄の黒木弾正信房とともに、
          伊達晴宗に通じて相馬氏に反旗を翻した。黒木兄弟は田中城を攻めたが、兵を返した相馬
          顕胤軍に敗れ降伏した。顕胤は彼らを一度は許したものの、その後まもなく駒ヶ嶺の陣中に
          誘殺した。その後、草野式部直清が中村城代に任じられた。
           永禄六年(1563)、直清は黒木城代青田顕治らとともに伊達氏に通じ、顕胤の子盛胤に
          反旗を翻した。直清は中村城外での戦いで盛胤の討伐軍に敗れて戦死し、顕治らは中村城
          に逃げ込んだ。盛胤は城兵の助命を条件に開城を勧告し、顕治らは三春へと落ちた。
           盛胤は次男隆胤に直清の娘を娶せ、後任の中村城代とした。また盛胤自身も、天正六年
          (1578)に家督を嫡男義胤に譲り、側近を連れて中村城西館(西曲輪か)へ移り住み、隆胤
          を後見した。同十八年(1590)、伊達政宗配下の亘理重宗・黒木宗俊らが中村城へと攻め
          寄せた。盛胤・隆胤父子は城外で迎え撃ったが(潼生淵の戦い)、隆胤は討ち死にし、盛胤
          もわずかな供廻りとともに中村城へ退いた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、相馬氏は中立の立場をとっていたが、佐竹氏に連座
          する形で同七年(1602)に所領を没収された。しかし、義胤の子蜜胤(石田三成から「三」の
          字を拝領した「三胤」から改名)の訴えにより、同年中に所領は返還された。
           このとき、居城を牛越城から父祖以来の小高城に戻したが、利胤(蜜胤から改名)は慶長
          十六年(1611)に中村への移城を計画した。盛胤は同六年(1601)に没しているが、この間
          10年ほどの中村城の扱いについては詳らかでない。改修の普請は木幡勘解由長清が担当
          し、わずか4か月で完成した。これほどの短期間で落成したのは、盛胤・隆胤父子のころに、
          すでに大規模な改修がなされていたからともいわれる。本丸南西隅には3層の天守が設け
          られたが、寛文十年(1670)の落雷で焼失し、その後再建されることはなかった。
           明治維新に際して、相馬中村藩は慶応四年(1868)の奥羽列藩同盟に参加したが、同年
          八月六日に新政府軍に降伏した。翌七日には、仙台追討総督の四条隆謌が相馬中村城に
          入城した。


       <手記>
           相馬中村城は、南側に宇多川の流れる舌状台地の先端を利用した城です。南北方向の
          浜通りと、東西方向の中村街道が交差し、坂上田村麻呂や源頼朝の伝承はともかく、古来
          より重要な地であったことは地図上から容易に察することができます。
           中村城は、規模は決して大きくないものの、虎口や濠を有効に配置した堅城であるといわ
          れています。とくに印象に残るのは大手虎口と水濠です。南方に開かれた大手は、一の門
          と二の門の2段構えとなっていて、それぞれが独立した虎口を形成し、寄せ手の兵は異なる
          火砲線に晒されます。また、今も本丸・二の丸周辺に水をたたえる濠は、戦時には周囲一帯
          を沼に変えることもできたといいます。
           全体としてみると、舌状台地を堀切で断ち切った本丸を複数の曲輪が螺旋状に取り囲む
          構造をしています。本丸背後の堀切は、岩肌が露出したところに水が溜められ、城というより
          景勝地というような風景を醸し出しています。
           また、中村城の地勢上の特徴として、江戸時代の相馬藩の北端近くに位置しているという
          点が挙げられます。これは北隣の宿敵伊達氏に備えるためといわれています。大手が南を
          向いていることや、濠が北側に集中しているところからも、伊達氏に対する相馬氏の感情が
          見え隠れしているように思われます。しかしながら、居城が所領の端に寄っているという例は
          江戸時代でもたまに見られるものの、江戸や京阪から遠い方の端っこに自ら移った大名は、
          相馬氏のほかにいないのではないでしょうか。あるいは、伊達氏への備えという面に加え、
          一度所領を没収されたことを鑑み、徳川家に臣従の意志を示す意味もあったのではないかと
          個人的に感じています。他方、同じ東北の城として会津若松城との縄張り上の共通点を指摘
          する向きもありますが、これは双方とも舌状台地を利用して築かれている以上、構造がある
          程度似るのは当然といえるでしょう。
           ちなみに、相馬といえば相馬野馬追が有名ですが、城址内には厩舎があり、いつでも野馬
          追の馬と触れ合えるようになっています。訪れる際にはニンジンを持参されるとよいでしょう。

           
 相馬中村城本丸の説明板と相馬神社。
相馬神社東面の堀切と鉢巻石垣。 
 本丸西側の水濠。
本丸と東二の丸の間の丸土張。 
 東二の丸と水濠を望む。
現存する大手一の門。 
 大手二の門跡。


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