牛越城(うしごえ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 牛越氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR常磐線原ノ町駅からバスに乗り、
      「仲町三丁目」下車徒歩15分


       <沿革>
           牛越城の初出は、文安二年(1445)に城主牛越上総介定綱が謀反を起こし、相馬
          高胤に攻め滅ぼされたとするものである。牛越氏の出自や、牛越城を築いたのも
          定綱であったのかなど、詳細は明らかでない。その後、牛越城には城番が置かれ、
          天正年間(1573〜92)には重臣長野一露斎が在番したとされる。
           慶長元年(1596)、相馬義胤は村上城を新たに築き、小高城からの居城の移転を
          図った。しかし、曲輪の造成が終わり殿舎の建築に入る段になって、火災により材木
          をことごとく焼失した。これを不吉とした義胤は、翌二年(1597)に牛越城を修築して
          移った。
           相馬家は関ヶ原の戦いで中立の立場をとったことから、慶長七年(1602)に改易を
          言い渡された。同年中に所領を返還された。義胤はその報を野馬追の最中に受け
          とったとされる。同年中に所領は返還されたものの、この一件を不吉とした義胤は、
          再び居城を小高へ戻し、牛越城は廃城となった。


       <手記>
           原町市街の北西に突き出た峰が牛越城跡です。主郭に水道施設が建っていて、
          そこへ行くための軽トラ道が南麓からぐるっと迂回して伸びています。なので主郭の
          遺構はありませんが、主城域へ行くのはラクラクです。
           最初に目につくのは、峰の付け根側の堀切である千人沢で、ここからが主城域と
          なります。堀を越えて左手峰上が二の丸で、右手峰したが帯曲輪です。帯曲輪は
          千人沢との間が高土塁となっていて、このあたりが現状で最も見ごたえのある遺構
          の1つです。
           主郭は前述の通り水道施設なので立ち入りできません。ゲートの手前に説明板が
          設置されています。二の丸に上がってみたものの、こちらは藪で状況はよくわかり
          ませんでした。
           フェンスに沿ってスライドすれば、主郭の向こう側へ渡れます。途中、南側斜面に
          階段があり、前出の腰曲輪に下りられます。歩きなら、この階段が水道施設への
          最短ルートということなのでしょうが、今も使われているのかはちょっと怪しい感じ
          でした。
           先端側へ回ると堀切があり、その向こうが東館ということです。ただ、途中の斜面
          が崩れてビニールカバーが敷かれていたので、渡るのはちょっと危険そうです。
          東館には神社があるようで麓から参道もありそうですが、そちらから登っても主郭
          までいくのは困難ということです。
           さて、牛越城は相馬地域ではかなり整った城ですが、それでもやはり前時代的な
          中世の山城の域を出ません。縁起が良かろうと悪かろうと、遅かれ早かれ居城を
          移転する必要性は生じたでしょう。原町自体は相馬領の中央近くにあり、発展性も
          あることから、現在の市街地中心部あたりに平城を築けばよかったのではないか
          と、個人的には考えています。
           それにしても、不吉・不吉で2度も居城を移転するとは、義胤はずいぶんゲン担ぎ
          を気にする武将だっただったんだなぁ、と感じました。

           
 牛越城跡遠望。
千人沢の堀切。 
 同上。
腰曲輪の土塁。 
 主郭前の説明板。
水道施設となっている主郭跡。 
 主郭脇の切岸。
主郭と東館の間の堀切を望む。 
 主郭脇の階段から腰曲輪を見下ろす。


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