羽生陣屋(はにゅう) | |
別称 : なし | |
分類 : 陣屋 | |
築城者: 江戸幕府 | |
遺構 : なし | |
交通 : 羽生駅からコミュニティバスに乗り、 「東町郵便局前」下車徒歩3分 |
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<沿革> 慶応三年(1867)、関東郡代は関東在方掛に分割され、関東代官の1人であった 木村甲斐守勝教が武蔵・上野・下野3国担当の在方掛に任命された。同年十一月、 勝教は上野国の岩鼻陣屋(岩鼻代官所)に代わり、羽生陣屋の建設を開始した。 陣屋は翌四年(1868)二月に完成した。 同じころ、鳥羽・伏見の戦いの敗残兵が江戸を脱出し、幕府歩兵差図役頭取の 古屋佐久左衛門がこれをまとめて衝鋒隊と称した。古屋は信州鎮撫の命を受け、 衝鋒隊は三月七日に羽生陣屋に入った。翌八日に羽生を発ち、下野国の梁田宿 (栃木県足利市)に止宿したが、翌九日未明に新政府軍に急襲されて惨敗した (梁田の戦い)。 勢いに乗った新政府軍は、利根川を渡って羽生陣屋に迫った。このとき陣屋に いたのは忍藩兵であったが、その隊長である丹羽蔀は自害して無抵抗の意思を 示した。これを受けて、新政府軍も無傷で忍藩兵を退出させた。 陣屋を接収した新政府軍は、建物に火をかけて焼き払った。完成からひと月と 経たずに、羽生陣屋は廃絶となった。 <手記> 東町郵便局の1本西側の路地を入ったところに高山稲荷神社という小さな社が あり、この付近が陣屋の北東エリアだったとされています。当時は四周を水濠に 囲まれ、郭内には11棟の建物があったそうです。急ごしらえとはいえ、比較的 短期間で完成したのは、戦国時代末期の羽生城の遺構を利用していたからと いわれています。 とはいえあまりにも短命に終わったためか、遺構はおろか神社境内にも周辺 にも碑や説明板のようなものはまったくありません。節義と人命を重んじて自刃 を遂げた丹羽蔀の顕彰碑くらいはあってもいいように思いました。 |
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羽生陣屋跡に鎮座する高山稲荷神社。 |