羽生城(はにゅう) | |
別称 : 羽丹生城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 山内上杉氏か | |
遺構 : なし | |
交通 : 羽生駅からコミュニティバスに乗り、 「羽生市役所」下車徒歩5分 |
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<沿革> 羽生市字小松の小松神社に奉納された三宝荒神像の銘文に、「天文五年丙申願主 直繁忠朝」と刻まれている。広田直繁と河田谷忠朝は兄弟で、山内上杉氏家臣木戸 範実の子である。このことから、羽生城は天文五年(1536)までに山内上杉氏の命に よって築かれ、直繁が城主を務めていたと推測されている。木戸氏は熱田大宮司藤原 季範の後裔で、下野国足利荘木戸郷を本貫とするとされる。直繁は広田郷(鴻巣市) 発祥の広田氏を、忠朝は川田谷(桶川市)に由来するとみられる河田谷氏の名跡を 継いだ。 天文二十一年(1552)、羽生城は後北条氏に攻め落とされ、城代として中条出羽守 が入った。永禄三年(1560)、越後の長尾景虎が山内上杉憲政を報じて関東へ出兵 すると、直繁・忠朝も馳せ参じて羽生城を奪い返した。直繁は改めて景虎から羽生城 を与えられ、忠朝は皿尾城主となった。 上杉氏を継承した政虎(景虎から改名。後の謙信)が越後へ帰国し、北条氏が勢力 を盛り返すと、羽生・皿尾両城は武蔵国内における上杉陣営の橋頭保として重要視 された。 永禄十二年(1569)に越相同盟が結ばれ、翌年に直繁が館林城主に転任すると、 忠朝が羽生城主にスライドした。この間、忠朝は名乗りを木戸姓に戻している。 元亀二年(1571)に越相同盟が破綻すると、羽生城は再び対北条氏の最前線の城 となった。天正元年(1573)、北条氏政が本格的に羽生城を攻撃すると、忠朝と子の 重朝・範秀兄弟は城を固めつつ、謙信に援軍を要請した。翌二年(1574)二月、謙信 は利根川対岸の上野国大輪(明和町)まで進軍したものの、増水した利根川を渡河 することができず、物資の救援にも失敗した。両軍にらみ合いが続いたのち、謙信は 四月にいったん帰国した。同年十月に再び来援したものの、現状では羽生城の維持 が困難であることを覚り、閏十一月に忠朝らに対して城の破却と撤退を命じた。 北条氏に接収された羽生城は忍城主成田氏長に与えられ、氏長の従弟の長親が 城代となったとされる。天正十八年(1590)の小田原の役に際し、氏長は小田原城に 詰め、忍城は長親とその父泰季が守備した。羽生城には泰季の弟の善照寺向用斎 が城代として入ったが、豊臣方の大軍が迫ると、向用斎は氏長の指示により忍城へ 撤退した。忍城は北条氏の降伏まで持ちこたえたが、羽生城は戦闘もなく接収され たものと思われる。 役後、徳川家康が関東に入封すると、大久保忠隣が2万石で羽生城主となった。 忠隣の父忠世は小田原城を預かっていたが、文禄三年(1594)に病没すると、忠隣 が後釜となって小田原へ移った。羽生城には、城代として旧城主木戸氏の旧臣鷺坂 (匂坂)道可が置かれた。同四年(1595)に道可も死去すると、城代家老として徳森 伝蔵や桑原九兵衛、佐伯図書といった名がみられる。 慶長十九年(1614)、忠隣が政争に敗れて改易となると、羽生城も廃城となった。 <手記> 羽生市役所の北方に古城天満宮があり、その境内に石碑や説明板が設けられて います。これが城跡を示すほぼ唯一のもので、遺構はなく市街地のなかに埋もれて います。古城図によれば、天満宮一帯は城の北東端に位置する天神曲輪の跡で、 北と東は蓮池に囲まれていました。南辺にも、濠を兼ねた小沼という沼沢地があり、 忍城や岩槻城などと同じ、水に浮いたような要害の城であったと推察されます。 本丸は天神社の西側にあり、曙ブレーキ工業の本社となっています。曙ブレーキと いえば、2019年に事業再生ADRを申請したことで話題になりましたが、実は小生は そのとき初めて同社の名前を知りました。そしてちょうどその年に、それと知らずに 羽生城跡を訪れ、「あっ、これがあの曙ブレーキって会社の本社か〜」と、不思議な 縁を感じてしまいました。 |
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羽生城跡の石碑と説明板。 | |
古城天満宮。 |
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本丸跡の曙ブレーキ工業本社。 |