鳩井氏館(はとがいし)
 別称  : 栢間城
 分類  : 平城
 築城者: 鳩井義景か
 遺構  : なし
 交通  : JR高崎線桶川駅または宇都宮線蓮田駅
      からバスに乗り、「農協直売センター食堂前」
      下車徒歩5分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』の栢間村の項に「古城蹟」として、「村の東の方小名沼尻に
          あり 今田畑となりて昔の境界分ち難し 古くは鳩井将監と云者 此所に住せしと云 村内
          正法院の熊野社に蔵する 永禄十三年の棟札に 大檀那鳩井殿息女鍋殿と載たれば
          其頃までは鳩井が住せしこと明けし 及同郡笠原村に出せる康暦三年の文書 及前条
          に出せる応永六年の文書に 鳩井美濃三郎入道浄景申 武蔵国埼西郡栢間郷内政所
          など云るを以て考れば 鳩井が当所に住すること 巳に古き事知るべし 又里人の伝に
          鳩井家没落の後は成田が家人鴨田筑後と云者住せりと云」とある。
           康暦三年(1381)の文書とは、鳩井美濃三郎義景が鬼窪氏から栢間郷の内笠原村
          の土地を購入したことを確認し、手続きを進めるべき旨の通達書とされ、『記稿』にある
          「浄景」は「義景」の誤りとみられる。鳩井氏は足立郡鳩ヶ谷郷が本貫で、武蔵七党の
          1つ野与党出身とも、足立氏庶流ともいわれるが詳しい系譜は定かでない。鳩ヶ谷郷
          の家は鳩谷氏と書き「はとがい」と読むが、鳩井氏については「はとい」とも読まれる。
          鬼窪氏は野与党の一家で、本貫は現在の白岡市にある。したがって、栢間村の古城
          は義景が居館として築いたものと推測されるが、確証はない。
           同書によれば、義景は鎌倉公方足利氏満に供奉していたとみられる。『記稿』にいう
          鳩井将監も含めて、義景以後の鳩井氏の動向については明らかでない。また、永禄
          十三年(1570)以降に鳩井氏に取って代わったとされる鴨田筑後なる人物についても
          不明である。成田とは忍城主成田氏長のこととみられているが、氏長の家臣名を列記
          した『成田分限帳』には、鴨田氏の名はみられない。


       <手記>
           栢間城とも呼ばれる鳩井氏館の所在地についてはっきり確定してはいないようです
          が、『中世城館調査報告書集成』では赤堀橋南詰西側の一帯に比定されています。
          今は川沿いでその向こうには弁天池がありますが、当時は低湿地に面した微高地の
          縁にあったものと推察されます。
           現状は民家や畑地となっていて、城跡らしきものは見当たりません。

           
 比定地現況。
弁天池。  


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