鳩谷氏館(はとがいし) (付.鳩ヶ谷陣屋) |
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別称 : 鳩谷兵衛尉重元館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 鳩谷氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : 埼玉高速鉄道鳩ヶ谷駅駅徒歩10分 | |
<沿革> 鳩谷氏の出自については、足立氏説や野与党説などありはっきりしない。寛元元年(1243) の鎌倉幕府の評定出席者として、鳩谷兵衛尉重元の名が『吾妻鏡』にみられる。翌年、重元は 自身の所領すべてを賭けた訴訟を起こし、敗訴して領地を失ったとされる。その後の鳩谷氏と 鳩ヶ谷郷については詳らかでないが、『吾妻鏡』には建長八年(1256)時点で「鳩井兵衛尉跡」 とあることから、重元の敗訴からまもなく鳩谷氏は鳩ヶ谷郷を去ったものと推測されている。 現在の久喜市菖蒲町を本拠とし、鎌倉公方足利氏満に仕えた鳩井義景は、重元の子孫と されている。重元から義景に至る間の、鳩谷氏(鳩井氏)の動向は不明である。 なお、鳩ヶ谷は「はとがや」と読むが、鳩谷氏については「はとがい」と読む。鳩ヶ谷郷について ももとは「発度(はっと)郷」と呼んでいたようで、承平七年(937)の『和名類聚抄』に「阿太知郡 発度郷」の記述がみられる。江戸時代に岩槻街道鳩ヶ谷宿のあった河岸西麓にかつて湧水が あり、これを「鳩ヶ井」と呼んだことから、「はとがい」の地名が生まれたといわれている。 <手記> 鳩谷氏の館については、いまなお正確な所在地は判明していません。有力とされているのは、 法性寺境内(地図の右上の緑丸)と字屋敷添と呼ばれる一帯(左下の緑丸周辺)です。法性寺 は荒川および芝川の形成した河岸中腹の窪地にあり、三方を峰に囲まれ鎌倉武士の館として 適した場所にあるといえます。また、字屋敷添は芝川と見沼代用水に挟まれた平地にあります が、古くは河岸であった可能性もあり、やはり館があってもおかしくはないと思われます。 史料上の裏付けもなく発掘調査も行われていないので、どちらが正しいかは現状からは判断 できません。また鳩ヶ谷駅の南の三ツ和遺跡から堀跡などが検出され、こちらが鳩谷氏館では ないかともいわれています。ただ、同遺跡の遺構は室町時代のものとみられているため、少なく とも重元の館跡ではないようです。 慶長五年(1600)、阿部正次が鳩ヶ谷に1万石を与えられて鳩ヶ谷藩を立藩しましたが、その 陣屋がどこに置かれていたのか不明とされています。これを法性寺に充てる郷土史家もおり、 仮に鳩ヶ谷陣屋も鳩谷氏館も法性寺にあったとすると、正次は鳩谷氏館跡に陣屋を設けたこと になります。ただ、法性寺は鳩ヶ谷宿より低い位置にあり、宿から見下ろせる場所に陣屋を築く ものか、そもそもこのころは無理に陣屋を構える必要もなかったのではないかといった疑問も 湧きます。正次は元和四年(1617)に大多喜へ移封となり、鳩ヶ谷藩はわずか17年で廃藩と なりました。 |
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法性寺。 | |
字屋敷添周辺のようす。 | |
鳩ヶ谷の由来となった鳩ヶ井周辺にある湧水公園。 |