大多喜城(おおたき)
 別称  : 小田喜城、大滝城
 分類  : 平山城
 築城者: 我孫子氏か
 遺構  : なし
 交通  : JR常磐線・成田線我孫子駅徒歩20分


       <沿革>
           大永元年(1521)に、真里谷武田氏の真里谷信清によって築かれた小田喜(おだき)城に
          はじまるとされる。信清は、真里谷城主真里谷信勝の兄弟とされているが定かではない。
          歴史家の黒田基樹は、小田喜城を築いた信清と別に、信勝の子真里谷恕鑑の実名が信清
          であるとする説を唱えているが、2人の信清の関係についてはお茶を濁している。『上総国
          大多喜根古屋城主武田殿系図』によれば、小田喜真里谷氏は信清-直信-朝信と続いた。
           天文三年(1534)に真里谷本家当主の恕鑑が死去すると跡目争いが勃発し、阿波里見氏
          の侵攻を招いた。同十三年(1544)、朝信信は里見家重臣正木時茂と戦い、討ち死にした。
          これにより小田喜真里谷氏は滅び、小田喜城は正木氏の持ち城となった。
           永禄七年(1564)の第二次国府台の戦いで時茂の子信茂が戦死すると、時茂の甥の憲時
          が小田喜城主を継いだ。天正九年(1581)、憲時は主君里見義頼に反旗を翻し、攻められて
          殺された。これにより、小田喜城は里見氏の直轄となった。
           天正十八年(1590)、小田原の役の結果里見氏は上総国を召し上げられ、代わって徳川
          家康が関東に入った。家康は、徳川四天王の1人本多忠勝に夷隅郡10万石を与えた。忠勝
          ははじめ万喜城に入ったが、翌十九年(1591)に小田喜城に移った。忠勝により城は大幅に
          拡充・改修され、城名もこのころに大多喜城と改められたものと推測される。
           慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いを受けて忠勝が桑名10万石へ移されると、忠勝の次男
          忠朝が5万石で大多喜城を継承した。忠朝は同二十年(1615)の大坂夏の陣で討ち死にし、
          跡を甥の政朝が継いだ。
           この間の同十四年(1609)、スペインのフィリピン臨時総督ドン・ロドリゴが本国への帰路に
          台風に遭い、大多喜藩領岩和田村に漂着している。大多喜城に保護されたドン・ロドリゴは、
          後に『日本見聞録』を著し、そのなかで城について「高台にあって濠に囲まれ、城門は大きく
          全て鉄でできており、厳重に警戒されている。また、城の内部は金銀で美しく飾られ、立派
          な武器庫もあった。」と述懐している。
           政朝は元和三年(1617)に龍野藩へ移封となり、代わって阿部正次が鳩ヶ谷から3万石
          で入封した。同五年(1619)に正次が小田原へ加増転封となると、大多喜藩は一時廃藩と
          なった。
           元和九年(1623)、青山忠俊が将軍家光の勘気を蒙り、岩槻5万5千石から大多喜2万石
          へ減封された。寛永二年(1625)には改易となったため、大多喜藩は再度廃藩となった。
           同十五年(1638)、正次の孫正能が祖父から1万石を分与され、再び大多喜藩を興した。
          寛文十一年(1671)、正能は忍藩主阿部忠秋の養子となって跡を継ぎ、正能の従兄弟の
          岩槻藩主阿部正春が1万6千石で大多喜藩主となった。記録によれば、このころの大多喜
          城は門も櫓も一重で、塀もないというほど荒廃していたとされる。正春は元禄十五年(1702)
          に刈谷藩へ移封となり、入れ替わりで稲垣重富が刈谷から2万5千石で入封した。しかし、
          城地が狭すぎるという理由から、わずか21日で烏山藩へ移ったとされる。代わって、大河内
          松平正久が玉縄藩から2万石で入り、以後大河内松平家が9代続いて明治維新を迎えた。
           天保十三年(1842)には天守が焼失したとされ、城内からは火災に伴う焼土も見つかって
          いる。ただし、少なくとも阿部正春の頃以降に天守が存在していたかについては、賛否両論
          がある。


       <手記>
           徳川四天王の1人本多忠勝の城として知られていますが、遺構については良好に残って
          いるとは言い難い感じです。本丸には「千葉県立中央博物館 大多喜城分館」という立派な
          正式名称をもつ模擬天守が建っていますが、天守の有無は上述のとおり議論の的であり、
          よしんばあったとしても、どこにどのようなものがあったのかは定かでありません。
           本丸の南辺には土塁の痕跡があり、また隅には櫓台のような土盛りが見られます。城主
          の屋敷地と思われる本丸東側中腹は県立大多喜高校となっていて、駐車場のど真ん中に
          八角形の大井戸が残っています。
           反対側の峰続きには二の丸跡があり、その周囲には道路によって削られているものの、
          堀切や横堀が認められます。二の丸の西には近世大多喜城の最後尾の堀切と思われる
          切通しがあり、現在は観光駐車場からの登城路となっています。その脇には、明治三年に
          岩盤を貫いて造られた大多喜水道の孔が開いています。
           この観光駐車場の背後には、もともと二の丸と繋がっていたと思われる細尾根が続いて
          いて、散策路が整備されています。この道はバードウォッチングのために作られたものの
          ようで、途中のピークには観察小屋もあるのですが、戦国時代の小田喜城はこの尾根も
          含めて、小谷戸を挟んだ1つ北の栗山が中心だったと考えられていました。近年の調査に
          よれば、近世大多喜城の下には中世の遺構が眠っているそうで、どちらがメインかは判断
          が難しくなっているようです。両者の結節点である細尾根も、2か所ほど堀切で切断されて
          いるように見えます。栗山の城跡まで足を延ばしたかったのですが、家族旅行で来ていた
          のであえなく断念しました。
           大多喜は城下の街並みもよく残っていて、観光面でも魅力的です。鍵の手の残る町割り
          や昔からの造り酒屋、「お宝鑑定団」でおなじみだった故渡邉包夫さんの渡辺家住宅に、
          今も営業を続ける旧旅籠の大屋旅館など、風情ある建物が点在しています。その一画の
          酒蔵小路という小道を歩くと、途中に惣構の堀跡も見受けられます。

           
 模擬天守閣。
同上。 
 天守閣からの眺望。
本丸隅の土盛り。櫓台か。 
 本丸南辺の土塁。
大多喜高校駐車場の大井戸。 
 本丸から大井戸へ降りる九十九折れ道。
本丸と二の丸の間の堀切。 
 二の丸のようす。
二の丸を囲む空堀。 
 大多喜水道。
観光駐車場背後の細尾根の堀切状地形。 
 細尾根の小ピークに建つ観察小屋。
城下の堀跡。 


BACK