斐太遺跡(ひだ)
 別称  : 斐太遺跡群
 分類  : 高地性集落
 築城者: 不明
 遺構  : 堀跡
 交通  : えちごトキめき鉄道北新井駅徒歩40分


       <沿革>
           斐太遺跡は今から1800年ほど前の弥生時代後期の遺跡とされる。国指定史蹟の斐太遺跡群を
          構成する3つの遺跡の1つで、沢谷戸を挟んで北の「上ノ山・矢代山A地区」と南の「矢代山B地区」
          の2か所から成っている。斐太遺跡群の他の2つ(吹上遺跡・釜蓋遺跡)が平地にあるのに対して、
          斐太遺跡は山中腹に位置し、堀をもつ環濠集落である点が大きな特徴である。
           稲作が普及した弥生時代において、耕作地より高所に集落を設ける必然性は乏しく、このように
          あえて周囲より高所に構えられた同時代の居住遺跡は「高地性集落」と呼ばれる。その性格や堀
          の用途については異説もあるが、基本的には防衛のためと考えられている。


       <手記>
           御館の乱の舞台として知られる鮫ヶ尾城を訪ねた際に知った遺跡です。A地区の方は「斐太歴史
          の里」という公園施設の一部となっていて、竪穴建物跡が歩兵陣地みたいな土盛りで表現されて
          いるほかはよく分からない感じになっていました。
           他方で、鮫ヶ尾城から東麓へ下りる中途にある矢代山B地区は、およそ60もの竪穴建物跡がある
          緩やかで広大な裾野の下部に、2条の横堀跡が残っています。竪穴建物跡は、一介の城跡ファン
          にはさっぱり分かりませんでしたが(苦笑)、横堀は戦国時代の遺構といわれてもまったく違和感が
          ありません。説明板がなかったら、御館の乱で上杉景勝方が兵士を駐屯させるために設けた陣城
          スペースの跡と思ったことでしょう。あるいは、実際そのように臨時で使ったのかもしれません。
           もうひとつ偶然の僥倖だったのが、これに先立って香川県の紫雲出山遺跡で高地性遺跡という
          概念に触れていたことです。そうでなければ、弥生時代の遺跡とて看過していたかもしれません。
          高地性遺跡は、上述のとおり稲作へ移行している弥生時代では非合理的といえる選地です。にも
          かかわらず、こうして高所に環濠集落が営まれたということは、やはり戦があったということなので
          しょう。とくに上越はヒスイの産地である糸魚川に近いことを鑑みれば、経済的に重要かつ争乱の
          種を抱えている土地柄であったとみることもできるのではないでしょうか。

           
 矢代山B地区の斐太遺跡説明板。
矢代山B地区のようす。 
 2条の横堀の上段。
同上。 
 同上。
同下段。 
 同上。
A地区の竪穴建物跡。 
 A地区の堀があったというあたり。


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