鮫ヶ尾城(さめがお)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 長尾氏(上杉氏)か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、井戸、虎口
 交通  : えちごトキめき鉄道北新井駅徒歩60分


       <沿革>
           築城年や築城主は明らかでない。上杉謙信の時代に、春日山城の南の防衛拠点として今日の
          規模に拡張・整備されたものとみられている。天正六年(1578)三月に謙信が急逝し、景勝と景虎
          2人の養子の間で御館の乱が勃発すると、当時の鮫ヶ尾城主堀江宗親は景虎方に属した。
           宗親は主力を率いて景虎のいる御館に入り、当初は景虎方が優位に立っていたが、景勝のいる
          春日山城を攻め落とすことはできなかった。同年六月に景勝と武田勝頼が和睦し、冬には景虎の
          実家である北条氏の援軍が一時撤兵すると、景勝方が巻き返して攻勢に出た。
           翌天正七年(1579)三月十七日、御館は景勝勢に攻め落とされ、景虎の子道満丸や謙信の養父
          にあたる上杉憲政が殺害された。景虎は宗親と共に鮫ヶ尾城へ撤退した後、兄の北条氏政を頼り
          関東へ逃れるつもりであったとされるが、このとき宗親はすでに安田顕元を通じて景勝への寝返り
          を決めていた。三月二十四日、宗親が城に火を放つと、景虎はついに自害を余儀なくされた。
           乱後、宗親は所領を没収されたといわれるが、堀江氏のその後は定かでない。焼け落ちた後で
          再利用された形跡がみられないことから、鮫ヶ尾城はそのまま廃城となったと考えられている。


       <手記>
           御館の乱における舞台の1つとして知られる鮫ヶ尾城は、国史跡に指定されています。なんでも
          「続日本100名城」とやらにも選ばれているそうですが、我には「なぜ??」の一言です。たしかに
          史上に名を残しており規模も大きいですが、実戦経験は自落の一度きりで御館の乱までの歴史も
          分かりません。縄張りも謙信の時代を反映してかさほど技巧的とはいえず、常々思うことですが、
          この100名城なるものの基準をいい加減はっきりさせてほしいものです。
           とまあ愚痴はこの辺にして、国史跡ということから城内はよく整備されています。東麓の尾根先か
          沢を挟んだ北側の斐太歴史の里から登山道がついているので、ぐるっと一周すれば効率よく見学
          できます。私は歴史の里に車を止めて、沢を渡って登城しました。
           歴史の里ルートを行くと、まず「景虎清水」と呼ばれる湧水があります。景虎の滞在期間は数日
          ですから、実際には景虎と関係なく元から城内にある水源でしょう。登り詰めると、まず目の前に
          主郭のひとつ後ろの曲輪である通称「米倉」の堀切が現れます。そこから左手に行けば、主郭と
          米倉の間の堀切を登って主郭に至り、手前と西にスライドすると、少し藪を抜けてさらに後背部の
          堀切や、そこに接合する横堀状地形が見られます。この堀切は現地で「大堀切3」と名付けられて
          いて、以下城内には多くの堀があるのでこの現地通称を併記することにします。ちなみに大堀切3
          より奥は、私が訪れたときには未整備の藪でした。
           主郭からは春日山方面が広く見渡すことができ、ここで最期を迎えた景虎の無念はいかばかり
          だったかと偲ばずにはいられません。主郭には前方に腰曲輪とその下に帯曲輪が巡り、この辺り
          は鮫ヶ尾城の原初部分をそのまま留めているようにも見受けられます。
           主郭の南側には、いったん東側の大堀切1を経由する形で通称「二ノ丸」や「三ノ丸」へ行くこと
          ができます。とくに三ノ丸は付け根側に堀切や土塁、また脇には1段下に虎口や井戸跡が残り、
          城内でも技巧性が感じられる箇所となっています。
           大堀切1に戻って尾根筋を東進すると、断続的に堀切や小ピークの曲輪が続きますが、こちらは
          そこまで技巧的とはいえません。東端の大堀切6を越えて少し下ると、大きく緩やかに開けた裾野
          出ます。ここは斐太遺跡の矢代山B地区といい、約60もの竪穴建物跡と、その下部に2条の堀跡
          が検出されているそうです。建物跡はぱっと見では分かりませんでしたが、横堀は割とはっきりと
          していて、案内がなければ城の遺構と思ったことでしょう。鮫ヶ尾城の下方裾野という位置からも、
          兵の駐屯スペースとして急遽設けられたと考えても違和感はありません。両者に直接の関係は
          ないでしょうが、歴史の妙というような面白さを感じました。

           
 鮫ヶ尾城跡遠望。
斐太歴史の里の説明板。 
 景虎清水。
主郭南側の帯曲輪。 
 主郭背後の堀切。
主郭背後の曲輪「米倉」。 
 主郭の城址碑。
主郭のようす。 
 主郭から前方の腰曲輪を俯瞰。
主郭からの眺望。 
 主郭から春日山城方面を望む。
米倉背後の堀切。 
 米倉北側中腹の横堀および竪堀状地形が
 交わるところ。
大堀切3。 
 大堀切3から延びる竪堀。
二ノ丸跡。 
 主郭部東下の大堀切1。
三ノ丸へ至る虎口跡。 
 三ノ丸跡。
三ノ丸付け根の土塁と堀切跡。 
 三ノ丸下の井戸跡。
東尾根に戻って大堀切1の先の堀切6。 
 東一ノ丸跡。
東一ノ丸先の堀切。 
 堀切8。
その先の堀切。名前はまだない。 
 大堀切5。
大堀切6。 
この先は斐太遺跡矢代山B地区に続きます。 


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