尾崎城(おさき)
 別称  : 金鶏城
 分類  : 山城
 築城者: 塩谷秋貞
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : JR高山本線高山駅からバスに乗り、
      「丹生川支所」下車徒歩20分


       <沿革>
           天文年間(1532〜55)に、塩屋筑前守秋貞によって築かれたとされる。秋貞は、名字の
          通り塩の商いで身を立てた武将といわれ、飛騨から越中にかけて広く活動していたとみら
          れている。その財力は、尾崎城に金の鶏と莫大な軍資金が埋まっているという伝説として
          今日まで語り継がれ、尾崎城には金鶏城の別称もある。
           永禄七年(1564)、武田信玄の命を受けた飯富昌景らが三木氏を攻撃すると、尾崎城も
          攻め落とされ、秋貞は蛤城(古川城)へ退いた。1570年代に入るころには、秋貞は上杉氏
          に属して越中方面にも拠点を築いたとされる。
           その後の尾崎城の動静については詳らかでない。秋貞は、天正十一年(1583)に越中
          城生城主の斎藤信利と戦い、討ち死にしたとされる。


       <手記>
           尾崎城は、名前の通り西向きに細く突き出た峰先の城です。城跡は、発掘調査を経て
          尾崎城公園として整備されています。北東麓からの林道は細くてすれ違うのも大変です
          が、公園まで来れば不相応ともいえる立派で広い駐車場が完備されています。
           駐車場があるのが副郭で、上段の区画が主郭となっています。両曲輪の前後にはそれ
          ぞれ二重堀切があり、後ろ側の方は道路建設で曖昧になってしまっていますが、前方の
          方は分かりやすく保存されています。
           その先の第3郭が城内で最も広大で、周囲を横堀状の帯曲輪が巡っています。テラス
          状の帯曲輪で囲うのはこの地域の古い城によくみられる構造で、尾崎城も三木氏の進出
          以前に築かれた城であるという状況証拠になろうかと思われます。帯曲輪の外側には、
          たくさんの畝状竪堀が認められます。ただ、ほとんどが低木に覆われていて、写真映えが
          しにくいのは残念なところです。畝状竪堀群の存在は、秋貞の戦死後も、尾崎城が天正
          十三年(1585)の金森長近による飛騨平定戦まで使われていた可能性を示しているもの
          といえるでしょう。
           それにしても気になるのは、塩屋秋貞という特異な武将の存在です。資料によっては、
          飛騨半国の主とか姉小路氏・江馬氏らを従えていたなどとあるようですが、飛騨の戦国
          大名より立場が上などということは、少なくとも名目上は考えにくいでしょう。おそらく巨万
          の富や上杉氏との関係をバックに、飛騨国内に隠然たる独立した影響力を行使できたと
          いうことではないかと推察されます。

           
 副郭から主郭を見上げる。
主郭のようす。 
 主郭背後の堀跡。
同上。 
 副郭のようす。
副郭と第3郭の間の二重堀切。 
 同上。
第3郭のようす。 
 第3郭サイドの横堀。 
第3郭前面の土塁と虎口。 
 第3郭前面下の帯曲輪。
帯曲輪先の畝状竪堀。 
 同上。


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