秀清屋敷(ひできよ) | |
別称 : 河村館、河村秀清屋敷 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 河村秀清か | |
遺構 : 不詳 | |
交通 : JR御殿場線山北駅よりバス 「岸」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 酒匂川河岸に字秀清屋敷ないし堀の内と呼ばれる一画があり、河村秀清の屋敷跡と 伝えられている。秀清は河村氏初代河村秀高の子で、河村義秀の弟にあたる。 義秀は源頼朝の挙兵に際して同心を拒んだため、治承四年(1180)の富士川の戦い の後に捕えられ、所領を没収された。文治五年(1189)の奥州藤原氏攻めに際し、秀清 は阿津賀志山の戦いで功を挙げ、奥州に岩手・志和・名取の3郡を与えられ、移ったと される。したがって、河村の秀清屋敷はこのときに廃されたと推測される。また秀清が 河村城主であった可能性は、この9年間に限られることになる。 <手記> 岸字秀清屋敷の一画に、秋葉神と土神を祀った祠があり、その周辺が秀清の屋敷跡 と伝えられています。一帯は宅地や畑地となっていて、遺構は見受けられません。溝や 河原へ下る古道などが見受けられますが、館との関連はないと思われます。伝承地は、 酒匂川が大きく屈曲する河岸にあたり、典型的な鎌倉武士の居館地形であると思われ ます。 河村城関連の館跡としては、秀清屋敷の北西200mのところに字土佐屋敷があり、 こちらからは室町時代の遺構が検出されています。ただ、両者の関連については不明 です。土佐屋敷が河村氏当主の館跡で、秀清屋敷は分家たる河村秀清が奥州に移る まで住んでいた、あるいは秀清屋敷こそが河村氏当主累代の館であったなどさまざまな 推測はできますが、ほとんど謎に包まれたままです。 |
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秀清屋敷跡とされる秋葉神と土神の祠。 |