河村城(かわむら)
 別称  : 戸張城、猫山城
 分類  : 山城
 築城者: 河村氏
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : JR御殿場線山北駅徒歩15分


       <沿革>
           平安末期、波多野遠義の次男秀高は、河村郷に入り河村氏を称した。河村城は
          秀高によって築かれたと伝えられるが、確証はない。秀高の子義秀は、源頼朝の
          挙兵の際に合力を求められたが、本家の波多野義常とともにこれを拒否したため、
          所領を没収された。建久元年(1190)、義秀は流鏑馬の腕前を認められ、旧領へ
          の復帰を果たした。また、義秀の弟四郎秀清は、頼朝に従い奥州藤原氏攻めで 
          活躍し、奥州に所領を与えられ茂庭氏の祖となった。
           南北朝の争乱で河村氏は南朝方に属し、文和元/正平七年(1352)には、新田
          義興・脇屋義治らの軍勢4000余を河村城へ迎え入れた。畠山国清を大将とする
          北朝軍が攻め寄せると、2年にも及ぶ攻防戦を繰り広げた。この戦いが、河村城が
          史料に現れる最初のものとされる。『管領記』には、河村城について「山嶮にして
          苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし」とある。翌年三月の南原の戦いで南朝
          方は敗れ、河村秀国・秀経ら河村一族の多くが討ち死にした。義興と義治は越後
          へ逃れ、河村城も落城した。
           その後、経緯は不明だが、関東管領上杉氏の持ち城となったとみられる。永享
          十年(1438)、鎌倉公方足利持氏との確執が深まった上杉憲実は、暗殺を恐れて
          上野国平井城へ身を移した。このとき、上杉氏家臣の長尾実景と大石重仲は、
          憲実に河村城へ身を隠すよう勧めている。同年に永享の乱が起こると、河村城は
          持氏方の大森憲頼に攻め落とされた。憲頼の子藤頼が北条早雲(伊勢宗瑞)に
          逐われると、河村城も北条氏の手に帰した。
           後北条氏時代の河村城は、対武田氏の前線の支城として、両者の関係が緊張
          するたび重要性を増した。深沢城をめぐる争いが激化するなか、元亀二年(1571)
          に河村城の補修を命じた文書が残っている。天正十八年(1590)の小田原の役で
          後北条氏が滅びると、河村城も廃城となった。江戸時代には、麓に山北の関所が
          設けられた。

       <手記>
           河村城は、酒匂川沿いにそびえる独立山系の一画にあります。東から、丸山、
          浅間山、城山と3つの峰が並んでいて、一番西側の城山に築かれています。城跡
          へは、JR山北駅から南方へ向かい、バイパスの下をくぐって盛翁寺の脇から登る
          のが最も分かりやすく、登山道も整備されています。ただし、大手と呼ばれている
          箇所は城の南東端にあり、南東麓の河村館へ通じていたようです。
           城は大きく東側の曲輪群(以下「東城」と仮称)と西側の曲輪群(以下「西城」と
          仮称)に分かれ、蔵曲輪の東に両者を分ける大きな堀切があります。両者の最大
          の違いは、施されている防御設備の技術力です。面積だけなら西城も東城もそれ
          ほど差がありませんが、東城が大きく大庭郭と近藤郭の2つから成っているのに
          対し、西城は本城郭を中心に小郭、茶臼郭、馬出郭、西郭、北郭、蔵郭と付属の
          腰曲輪群という多数の曲輪で構成されています。
           東城の大庭郭は東城の中心となる曲輪であり、張出しを伴って大手を守る重要
          な曲輪であるにもかかわらず、ほとんどだだっ広く削平されただけの単純な曲輪
          です。加えて、東城の防備は両端と大庭郭・近藤郭間の3か所に設けられた堀切
          のみです。大庭郭の西2つの堀切は、深く尾根筋を断ち切った豪壮なものですが、
          構造自体の単純さは否めません。
           対して西城の堀切には畝が設けられ、後北条氏によって完成されたものである
          ことは明らかです。とくに本城郭と茶臼郭の間の2条の畝堀は見事で、施された
          技術の高さをうかがい知ることができます。本城郭を中心に、三方に延びる尾根
          上に堀切で区切られた複数の郭を配し、複雑なつくりとなっています。
           このように、2つの大きく性格の異なる曲輪群から成っているという特徴をもつ
          河村城ですが、なぜこのような城となったのかという点について、個人的な意見
          として河村氏の時代には東城だけだったものに、上杉氏以降西城部が増築され
          たのではないかと考えています。
           大手が大庭郭南東隅にあり、大手道が伝河村館方面へ通じていることから、
          河村城が大庭郭から西へと広がっていった城であることが推測されます。そして、
          大庭郭は東西両端の細尾根のみ地続きで、これを堀切で切ればそれだけで城
          としての用を為す地形です。したがって、河村氏の時代には大庭郭とせいぜい
          近藤郭までが城域で、尾根筋を切って封鎖しただけの単純な城砦だったのでは
          ないかと考えています。室町時代中期になると、城のスタイルも変わり、西側に
          ほとんど新城というべき新しい河村城が増築されたとのではないかというのが
          私の見解です。
           ちなみに大庭郭という呼称については、平安末期の大庭景親との関連が指摘
          できると思われます。源頼朝追討軍の指揮官だった景親は、再起した頼朝軍に
          抵抗できず「河村山」へ逃れたとされています。この河村山が河村城大庭郭を
          指すとすれば、前述の「大庭郭=初期河村城」という考え方とも整合性をもつと
          考えられます。

           
 本城郭のようす。
茶臼郭から本城郭方面を望む。 
 茶臼郭と小郭の間の畝堀。
 手前は畝の間に湧く「お姫井戸」。
本城郭と小郭の間の畝堀。 
 西郭のようす。
北郭のようす。 
 本城郭と蔵郭の間の堀切。
蔵郭から近藤郭を望む。 
発掘調査中につき、立ち入りはできませんでした。 
 大庭郭のようす。
大手から大庭郭を望む。 


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