東中居館(ひがしなか)
 別称  : 一条三位館
 分類  : 平城
 築城者: 上杉憲藤か
 遺構  : 土塁
 交通  : JR東海道本線藤枝駅からバスに乗り、
      「相良営業所」下車徒歩10分


       <沿革>
           『日本城郭大系』によれば、『遠江国風土記伝』に「理趣寺除地の高二石 平田寺の
          末 平僧住す 寺内は上杉三位殿館舎跡なり」とあるとされる。また『理趣寺々記』には、
          「開基は上杉一条三位憲藤也 弘安七年(1284)の春 相良の荘に於て広厦を構えて
          居れり」とあるとされる。
           関東管領・上杉憲顕の弟に犬懸上杉家の祖となった上杉憲藤がいるが、文保二年
          (1318)の生まれであるため世代が合わない。一般に一条三位とは、公卿一条家で
          従三位中納言に昇った者を指すが(故・菅貫太郎さんではない笑)、上杉家とは直接
          の関係はなく、いかなる人物であるか不明である。


       <手記>
           萩間川と菅ヶ谷川の合流点に望む氾濫原にある方形館跡です。件の理趣寺は明治
          初年に廃寺になったそうですが、今も小さな墓地とお堂があり、境内跡は水田となって
          います。その西辺にははっきりと土塁が残り、北辺の藪の中にもおそらく土塁が眠って
          いると思われます。
           上杉氏や、まして一条家の人物がここに住していたとは考えにくいでしょう。肥後国
          相良藩主として続いた相良氏は、もともと相良荘の在地領主で、その居館は萩間川の
          河口近くにあったとされています。当主の相良頼景・長頼父子は鎌倉時代初めに肥後
          へ下向しましたが、残った一族もあったとされることから、そのうちの誰かの居館として
          築かれたのではないかとも考えられます。ひとつ南側には堀之内の字も残り、川沿い
          に一族の館が並んでいたという推測も成り立つでしょう。
           ちなみに、字を東中というので、名称は「東中居」館ではなく「東中」居館と思われる
          のですが、裏は取れていません。

           
 東中居館跡現況。
 奥の林に土塁が眠っていると思われます。
西辺の土塁。 


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