東山新城(ひがしやましん) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 武田信賢か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀 | |
交通 : 京都市バス「一乗寺下り松町」バス停下車徒歩40分 | |
<沿革> 『山科家礼記』の文明二年(1470)九月十八日の項に、「逸見北白川上山に構沙汰するの由」と あり、これが東山新城の初見であるとされる。「北白川上山」は今日の瓜生山を指すとされている が、具体的にどの峰を指すのかは確定をみていない。「逸見」とは、若狭武田氏の家臣逸見氏を 指すとみられている。『二水記』には「武田の城」と明記されており、如意ヶ嶽城にあった武田信賢 が逸見氏に命じて築かせたものと推測されている。当時、瓜生山には尾根沿いに比叡山一本杉 を経由して近江穴太へ至る白鳥越が通っていて、西近江経由で若狭との輸送路を確保する目的 があったものと思われる。 『二水記』の享禄四年(1531)六月六日の項に、東山新城が落城・焼失した旨が記されている。 2日前の大物崩れで細川高国が敗死し、まもなく勝軍山城が細川晴元軍によって攻め落とされて いることから、東山新城も同じく晴元に攻められたものとみられる。同書には、東山新城について 「近日近江の衆新たにこれを構へ 数千間木屋を懸け了んぬ」とあり、高国を支援していた近江の 六角定頼がその後に城跡を取り立てて普請したことがうかがえる。ただし、これ以降東山新城は 記録には登場していない。 <手記> 勝軍山城跡とされる瓜生山の東の3つのピークにそれぞれ曲輪群があり、これらが東山新城の 跡と考えられています。資料によっては曲輪群は4つあるとされているのですが、4つ目がどこを 指すのかは、私が踏査した限りでは分かりませんでした。ここでは便宜上、3つの曲輪群をそれ ぞれ東峰、西峰、南峰と呼ぶことにします。 東峰が最も高所にあり、主城域であると考えられています。山頂の主郭を中心として、階段状 に3段ほどの腰曲輪が巡っています。尾根筋には、大規模な空堀や土橋が設けられています。 文明や享禄のころには、東山新城はあくまで兵站拠点として必要だったものと思われ、ここまで しっかりした防御施設が築かれていたようには考えにくいようにみえます。やはり、勝軍山城と セットで享禄以降も使用されていたものと思われます。 南峰も、山頂の曲輪を中心に数段の曲輪が連なっています。南峰には、一見したところ堀は 見受けられません。現在も南峰の直下を白川へ下りる道があり、この道を押さえる役目をもって いたものと推測されます。 西峰と南峰の間は峠状になっていて、西峰の麓にはこの峠を監視するように、土塁で囲まれ た曲輪があります。東山新城で明確に土塁で囲繞された曲輪は、東峰主郭のほかはここだけ と思われるので、興味深い遺構といえます。もう1つ特徴的なのは、西峰には櫓台状の土塁が あるということです。この土塁は中央が凹んでいて、重層の櫓が載っていた可能性も指摘でき ます。もしそうだとすれば、今日に残る遺構は織田信長の時代まで下るものと考えられます。 元亀元年(1570)の志賀の陣で、信長は逢坂越の街道を封鎖し、新たに山中越ルートを開き ました。この道は、東山から白川・山中・「大ナル坂」を越えて宇佐山城下へ至るルートである ことが、『多聞院日記』から明らかとなっています。信長は、この白川沿いの新街道を監視し、 比叡山周辺から白鳥越を通って侵入してくるであろう浅井・朝倉連合軍に備えるために、勝軍 山城を修復しています。この2つの目的には、勝軍山城より東山新城の方が地理的には適して いるといえ、信長がこのときに東山新城も取り立てたと考えれば、この城が補給路確保のため 以上の縄張りと規模をもっていることにも説明がつくものと思われます。 |
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主城域主郭のようす。 | |
東峰の腰曲輪その1。 | |
その2。 | |
東峰の堀切。 | |
横堀跡か。 | |
土橋跡。 | |
南峰主郭のようす。 | |
南峰主郭下段から上段を望む。 | |
西峰主郭のようす。 | |
西峰主郭の櫓台状土塁を望む。 | |
西峰の腰曲輪群。 | |
櫓台近望。中央が凹んでいます。 | |
西峰南麓の土塁で囲まれた曲輪。 |