勝軍山城(しょうぐんやま)
 別称  : 将軍山城、北白川城、瓜生山城、勝軍地蔵山城
 分類  : 山城
 築城者: 細川高国
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀、虎口跡
 交通  : 京都市バス「一乗寺下り松町」
      バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           永正十七年(1520)五月、細川澄元・三好之長らに京を逐われた管領細川高国は、
          六角氏らの支援を得て瓜生山山頂に陣を設けた。『二水記』によれば、このとき高国が
          戦勝を祈願して勝軍地蔵を安置したことが、城名の由来とされる。高国は之長を討って
          入洛を果たしたが、大永七年(1527)の桂川原の戦いで之長の孫の元長らに敗れると、
          将軍足利義晴とともに近江へと逃れた。勝軍山城には、高国の被官内藤彦七が六角
          定頼の支援のもとで留まり、戦線を維持した。
           享禄四年(1531)の大物崩れで高国が敗死すると、勝軍山城は東山新城とともに
          細川晴元(澄元の子)の軍に攻め落とされた。将軍義晴は、その後晴元と対立と和解を
          繰り返し、その度に定頼を頼って近江へ落ちているため、白鳥越を扼する勝軍山城は
          双方にとって重要な拠点であったと思われるが、詳しい動向は不明である。
           天文十五年(1546)十一月、再び晴元と対立した義晴は、勝軍山城を大規模に改修
          した。このときの普請では、周辺の旧家や門跡領などから広く人員や用材・城米などを
          徴発したようで、各種古文書にその様子が記されており、中世城郭の具体的な作事の
          模様を知る貴重な史料となっている。同年十二月、義晴は嫡男義藤に将軍位を譲って
          いるが、このとき父子は近江坂本に亡命していた。
           翌天文十六年(1547)、義晴・義藤父子は勝軍山城に籠城したが、定頼が晴元方に
          味方することを表明し、晴元家臣の三好長慶(元長の子)が大軍を率いて入京すると、
          父子は城に火を放って再び坂本へと落ちた。同年七月の舎利寺の戦いで、義晴方の
          細川氏綱・遊佐長教軍が三好軍に完敗すると、義晴は晴元・定頼と和解して帰京した。
          同十八年(1549)までには、勝軍山城は再建されていたようだが、同年に義晴は近江
          穴太で死去している。
           義晴の晩年から瓜生山の南に中尾城の建設が進められ、義藤と晴元(長慶に下剋上
          されていた)は、天文十九年(1550)に中尾城で挙兵した。義藤らは長慶に敗れて近江
          朽木へ落ちたが、勝軍山城の動向は詳らかでない。
           永禄元年(1558)、義藤は義輝と改名し、定頼の子義賢の支援を得て京奪還の兵を
          挙げた。六月二日、三好長逸・石成友通らの三好勢が勝軍山城に進駐したが、すでに
          あった城を占拠したのか、一度廃城となっていたものを取り立てたのかは定かでない。
          これに対し、義輝軍は如意ヶ嶽に兵を進めた。これにより六角勢との挟撃の可能性が
          生じた三好勢は、七日に勝軍山城を自焼し洛中へ引き上げた。義輝勢は瓜生山を占領
          したものの、如意ヶ嶽を三好勢に奪われた。義輝は、十一月に和睦を成立させ入京を
          果たすまで勝軍山城に在城しており、その間に焼け落ちた城も復興されたものと推測
          される。
           永禄四年(1561)七月、畠山高政と組んだ六角義賢が軍勢を率いて京へ進出した。
          義賢の本陣は神楽岡に置かれ、別動隊が勝軍山城に入った(守将は永原重澄とも)。
          4か月ほど膠着状態が続いたが、十一月二十四日に三好勢が総攻撃をかけた。勝軍
          山城には松永久秀の軍勢が攻め寄せ、落城した。しかし、神楽岡の本戦では六角勢が
          勝利した。義賢は京に歩を進めたものの、翌五年(1562)五月の教興寺の戦いで高政
          が三好勢に完敗すると、不利を悟って近江へ撤退した。
           その後、勝軍山城はしばらく史料から姿を消す。元亀元年(1570)の志賀の陣に際し
          て、比叡山周辺に陣を張る浅井・朝倉連合軍に対し、織田信長は逢坂越の入京ルート
          を封鎖し、宇佐山城下を経由する山中越を開いた。この山中越を監視し、浅井・朝倉軍
          が白鳥越を伝って侵入するのを防ぐため、勝軍山城に明智光秀が入ったことが、『兼見
          卿記』に記載されている。同年十二月十四日に和議が成立すると、勝軍山城は役目を
          終え、廃城となったものと推察される。


       <手記>
           勝軍山城は、比叡山連峰から延びた瓜生山の山頂にあり、南に白川、北に音羽川が
          流れています。瓜生山を経由して近江穴太に至る白鳥越は、尾根伝いに開かれた古い
          タイプの山越え道とみられ、いつのころからか音羽川脇の雲母坂から登るルートに切り
          替えられたと考えられています。永禄五年までは、近江との連絡拠点として勝軍山城が
          重視されていたことから、このときまでは旧ルートが維持されていたものと推測されます。
           さて、城跡へは、一乗寺下り松町から詩仙堂や八大神社を横目に山道を進み、狸谷
          不動院の裏手から登ることができます。瓜生山全体がハイキングコースとして整備され
          ていて、ほかにも登山ルートはいくつかあるようですが、これがもっとも分かりやすく歩き
          やすいルートだと思います。
           山頂の本丸には、奥の院というお堂があります。その背後には、城名の由来となった
          勝軍地蔵が収められていたという石室が残っています。このお地蔵様は、後に瓜生山
          南西麓に「将軍地蔵」として遷されたそうです。「将軍」の字は実際に将軍が拠ったこと
          にちなんで付けられたものでしょうから、天文十五年以降に生まれた別称だろうと思わ
          れます(ただし、義晴や義輝が自ら「将軍山」と呼んだとは考えにくいですが)。
           本丸の南側から北西側にかけての峰筋に、いくつかの腰曲輪群が見受けられます。
          本丸背後の尾根筋は、ハイキングコース化によってかなり地形に手が加えられている
          ようで、遺構であるのか否かが不鮮明になってしまっています。おそらく堀切や土橋が
          設けられていたと思われますが、表面観察からはどれが遺構かは断言できません。
           山頂周辺の眺めは決して開けてはいませんが、ときおり比叡山や岩倉方面を望むこと
          ができます。瓜生山の東側の峰にも遺構があり、一般には東山新城の跡と考えられて
          いますが、現地説明板には北白川城の出丸とあります。いずれにしても、東山新城は
          勝軍山城に従する城と考えられ、両者は不可分に存在していたものと思われます。

           
 瓜生山を望む。
主郭跡と奥の院。 
 勝軍地蔵が安置されていたとされる石室跡。
主郭下の腰曲輪。 
 腰曲輪脇の虎口跡。
主郭下の腰曲輪その2。 
 その3。
主郭後方の地形。切岸跡か。 


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