日出城(ひじ) | |
別称 : 暘谷城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 木下延俊 | |
遺構 : 櫓、石垣、堀 | |
交通 : JR日豊本線暘谷駅徒歩10分 | |
<沿革> 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いの戦功により3万石を与えられた木下延俊によって、築城が 開始された。延俊は木下家定の三男で、豊臣秀吉の正室高台院の甥にあたり、小早川秀秋の 実兄である。 もともと、現在の町役場北東の光蓮寺一帯に、中世以来の日出城があった。しかし、荒廃して いたことを理由に、延俊は新城の築城を計画した。候補地としては、深江と日出の2ヶ所が挙げ られたが、日出の青柳村とすることで落ち着いた。築城に際しては隣の中津藩主であり、延俊 の義兄にあたる細川忠興が、全面的にバックアップした。工事現場に忠興自身が訪れることも、 しばしばであったといわれる。 城は慶長七年(1602)に完成した。本丸には、付櫓をもつ三層の層塔式天守が上げられた。 層塔式天守といえば、忠興が同十五年(1610)に築いた小倉城の天守にがその代表格である が、日出城天守がそれに先立って忠興の指導の下で建てられた嚆矢であることは、興味深い ことといえる。 延俊の死後、遺言により、2代藩主延治の弟延由(延次)に5000石が分知された(立石藩)。 延由については、豊臣秀頼の遺児国松であるとする説がある。 雅称の暘谷城は、3代藩主俊長が、『淮南子』の一節「日は暘谷から出て 咸池に入る」から 命名したとされる。 日出藩は、木下氏が16代を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 日出城は、城下かれいで有名な日出湾を見下ろす高台に築かれています。ただし、城下とは 高低差はありません。本丸を囲うように二の丸を配し、その東側に三の丸を置く縄張りとなって います。 現在、本丸は日出小学校に、二の丸の東側は日出中学校になっています。したがって、学校 のなかをうろつきまわるわけにもいかず、天守台にも「登らないでください」との看板があります。 小学校の入口が大手門跡で、大手口の土橋(といっても石垣で固められていますが)の両脇に は、かまぼこ石を上に並べた石塀があります。これは当時からの遺構だそうです。本丸の石垣 は基本的によく残っているのですが、学校建設時に積み直したり拡張したりしたのか、継ぎ目が 入っている箇所があり、少々残念です。 日出城といえば、ひとむかし前の資料には必ずといってよいほど、農家の納屋か何かに転用 されている隅櫓が掲載されていました。近年、この農家から櫓が町に寄贈されたようで小学校の 北西外に修復・展示されています。私が訪れたときにちょうど仕上がったばかりだったようで、 今では内部も公開されているそうです。この櫓は、もとは本丸の北東隅にあった「鬼門櫓」で、 櫓の北東隅も鬼門除けで欠いているという、全国でも珍しい形状をしています。 また、小学校の北、かつての二の丸の一画に、解体保存されていた裏門櫓が再移築復元され ています。ここは、最近完成した日出城付属の観光施設である二の丸館の一隅で、二の丸館に はお土産売り場や食事処があります。どちらの櫓とも、位置については当時と異なる場所に復元 されています。 旧三の丸の海沿い一帯には、明治期の実業家の邸宅を利用した料亭「的山荘」があります。 ここのお庭は、お店の方にひとことおうかがいすれば、無料で見学することができます。高崎山を 借景とした静かな別府湾の景色とともに、日出の絶景を楽しむことができます。 余談ですが、海岸線を歩いていたところ、水際でひじきを採っている方にお会いしました。もと は首都圏にお住まいだったそうですが、定年をきっかけに出張で訪れた日出に移住したのだそう です。その方がおっしゃるには、空港が近いので首都圏に住むお子さんを訪ねるのにも便利だし、 何より日の出が美しいのだとか。たしかに、「日出」はそのまんまですが、雅称の「暘」谷も同じ 意味です。残念なことに訪れたのが夕方だったので、別府湾とお日様という組み合わせは見られ ませんでしたが、景色に惚れて移り住みたくなるというのもよく分かる風光明媚なところでした。 |
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鬼門櫓。建物の左手の隅が欠けています。 | |
裏門櫓。門の奥の建物は二の丸館。 | |
天守台石垣。 | |
同上。 | |
本丸東側の空堀と石垣。 | |
本丸からの眺望。 右手の山は高崎山。 |
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城下かれいの故郷。 画面中央の一番高い山の麓が別府。 |
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本丸石垣。 | |
本丸巽櫓跡と巽門跡。 | |
本丸北東隅櫓(月見櫓)跡。 | |
暘谷城址碑と大手口。 道の両側の石塀は当時の遺構。 |
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人柱祠。実際に人柱とみられる人骨が見つかっています。 | |
継ぎ目のある石垣。 | |
三の丸跡の的山荘。 | |
的山荘庭園からの眺望。 | |
おまけ:城下鰈供養塔。 |