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平山城(ひらやま) |
別称 : 平山氏館 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 平山氏 | |
遺構 : 削平地 | |
交通 : 京王電鉄平山城址公園駅下車 | |
<沿革> 武蔵七党の1つ西党日奉氏の流れをくむ平山氏の居館および居城跡といわれる。平山氏は、 日奉宗綱の子八郎直季にはじまるとされる。直季の子季重は源平合戦で活躍し、とくに源義経 に従って各地で軍功をあげた。後に後白河法皇から右衛門尉に任じられたが、無断任官である として義経らとともに頼朝の不興を買った。しかし、奥州合戦で奮戦したことで再び取り上げられ、 鎌倉幕府の元老に名を連ねた。 平山氏は季重の三男季武が継承したとされる。ただ、現在の日野市平山が平山氏の本拠地 であったことを示す史料はない。『新編武蔵国風土記稿』にも、季重の居館跡とする土地の口伝 を載せているが、「強て定め難し」として留保している。季重は、晩年に秋川流域に寺社を建立 したとされ、平山氏の本流も秋川流域へと移っている。とくに応永年間(1394〜1427)にその名 が見られる平山三河入道は、秋川流域の在郷武士団である武州南一揆の一員として活動して いた。その後、平山氏はさらに檜原城平山氏と藤橋城平山氏の2流に分かれたとみられる。 平山郷になお平山氏があったかは不明であるが、永禄二年(1559)の『小田原衆所領役帳』 によれば、平山長寿(後の氏重とされる)が平山に所領をもっていた。氏重は天正十八年(1590) の小田原の役で檜原城に籠って敗れ、自刃したと伝わる。平山城がいつまで存続していたかは 不明だが、遅くとも北条氏の滅亡とともに廃城になったと考えられる。 <手記> 京王線平山城址公園駅があることによって、「平山城」という城があるということは、城に関心 のない人にもわりと知られています。ただ、もっともらしい駅名とは裏腹に、ここが平山氏の城跡 であることは立証されていません。『日本城郭大系』では、山城部の平山城と居館部の平山氏 館を分けて取り上げています。 平山城および平山氏館とされるものは、3か所挙げられています。1つは駅前の平山図書館 周辺、2つ目は宗印寺とその裏山、そして3つ目は城址公園北隅の季重神社周辺です。駅前 ロータリー脇に、19世紀に季重子孫を名乗っていた平山正名・正義父子が建てた石碑があり ます。ここにはかつて大福寺という寺があり、季重開基と伝えられていました。周辺は浅川に ほど近い平地で、存在したとすれば、おそらく崖端の館だったのでしょう。 2つ目の宗印寺には季重の墓がありますが、これは大福寺が廃寺となった後に移されたもの だそうです。宗印寺は、三方を峰に囲まれた窪地にあり、中世領主の典型的な館地形といえ ます。寺の西側の尾根筋には、いくつかの削平地が連なっているように見受けられます。館が あった可能性はこちらの方が高いように思われ、尾根先には防御施設があったものと思われ ます。 3つ目の季重神社は、前2者からみるとやや奥まったところにあります。頂上の神社周辺は 細長い削平地となっていて、北への眺望に優れています。神社の北側尾根に数段の削平地と、 『大系』によれば2つの虎口跡があります。 このように、平山には3か所の城跡および館跡とみられる、あるいは伝えられる場所があり ます。この3つの相互関係についてはさまざまに議論されています。個人的には、駅前か宗印 寺が季重時代からの館跡で、後に季重神社の城と新たに築かれていったのではないかと考え ています。駅前の居館は、軍事的要素はほぼないといえるでしょう。そこから少し高台窪地に 入った宗印寺は、北側への眺望も利き、背後の丘陵には立て籠もるための簡単な城郭遺構も あります。 そして季重神社の山城部ですが、これは立地から見て居住用とは思えません。また山容や 構造からみて、規模はかなり小さなものだったと推測されます。季重神社は周辺で最も高い ところにあるため、籠城用というより狼煙用や伝えの城として使われたとみるのが妥当と思わ れます。 |
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駅前の館跡石碑。 | |
宗印寺。 | |
宗印寺西側の峰の削平地。 | |
季重神社。 | |
季重神社周辺の削平地。 | |
神社下の虎口とされる箇所。 | |
城址公園周辺からの眺望。 |