藤橋城(ふじはし)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 平山氏か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、空堀
 交通  : JR青梅線東青梅駅またはJR八高線金子駅よりバス
       「藤橋」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           藤橋城築城の経緯については明らかでない。『武蔵名勝図会』には「平山越前守重吉(現地の
          説明板では虎吉)という人の住居の地なり」とある。平山氏は、武蔵七党の1つ西党に属する平山
          季重の子孫とされる。ただし、檜原城の平山氏が本流とされ、藤橋城平山氏はその傍流とされる。
          いつごろ分かれたのかは定かでない。
           永禄三年(1560)に越後の長尾景虎が関東管領上杉憲政を擁して関東に出陣した際、藤橋城
          の平山光義が長尾陣営に馳せ参じたことが、『関東幕注文』からうかがえる。重吉が天文十二年
          (1543)没とされるため、光義は重吉の子かそれに準ずる者と考えられる。光義は檜原城主平山
          氏重の妹鶴寿を妻としていたが、氏重は北条陣営にとどまったため、鶴寿は檜原へ送り返された。
          翌年四年(1561)、北条氏攻略に失敗した上杉政虎(長尾景虎から改名)が越後へ帰国すると、
          藤橋城は北条氏の攻勢に晒された。永禄六年(1563)に城は落ち、光義は捕えられて小田原へ
          送られた。その後に光義は解放され、鶴寿とともに下総国多古へ落ち延びたといわれる。
           その後の藤橋城については明らかでない。廃城となったとも考えられるが、平山氏一族とされる
          藤橋小三郎なる人物も藤橋城主として見られることから、小三郎が光義の跡を襲って藤橋城主と
          なったとも推測される。

       <手記>
           藤橋城は、北に霞川の氾濫原を望み、河岸が一部せり出したところにあります。北麓は今でも
          水田地帯ですが、当時もおそらく深田が巡っていたと思われます。また、城の南側を東西に豊岡
          街道が、東側を南北に岩蔵街道が走り、両者は城の東で交差しています。交差点付近には七日
          市場や今井馬場崎といった地名が残り、古来交通の要衝であったことがうかがえます。
           城跡は、主郭が公園化されているほかは住宅地となっています。なので詳しい縄張りは分かり
          ませんが、基本的には主郭のみの単郭を基調とした城であったと思われます。主郭の遺構残存
          状況は良好で、曲輪をぐるりとめぐる土塁と北東部の空堀が残っています。また、主郭の一段下
          に空堀ないし帯曲輪と思しき削平地も見受けられます。
           公園をぐるっと迂回する道路は、主郭と外郭の間の空堀跡と思われます。その外側の住宅地
          には外郭があったと推測されますが、詳細は不明です。
           藤橋城は、東に1qの今井城や西に2qの勝沼城と比べて構造が原始的であるという特徴が
          あります。これはおそらく、今井城や勝沼城が後北条氏の改修を受けているのに対し、藤橋城は
          在地領主の館城のままであったことを示していると思われます。

           
 藤橋城址説明板。
主郭中心にある杣保神社跡碑。 
城跡とは直接関係はないようです。 
 主郭南西隅の土塁。櫓台か。
主郭西側の土塁と帯曲輪跡。 
 主郭東側の空堀。
主郭から北方を望む。 


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