広瀬陣屋(ひろせ)
 別称  : 広瀬城
 分類  : 平城
 築城者: 松平近栄
 遺構  : 石垣、堀跡
 交通  : JR山陰本線安来駅よりバス
      「広瀬バスターミナル」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           松江藩松平氏初代松平直政の二男近栄は、寛文六年(1666)に兄で2代藩主の綱隆から3万石を
          与えられ、広瀬藩を立藩した。ただし、当初は蔵米の支給という形をとり、支配する領地はもっていな
          かった。またこの年、当の広瀬では飯梨川および富田川の大氾濫が起こり、それまでの広瀬周辺の
          集落は壊滅した(現在の富田川河床遺跡)。
           延宝九年(1681)、近栄は同じ越前松平家系である高田藩の越後騒動に関与した責任を問われ、
          1万5千石に減知された。貞享元年(1684)、近栄は蔵米支給から封地支配に改められ、広瀬に陣屋
          を構えた。元禄七年(1694)には禄高3万石に戻り、以後明治維新まで10代を数えた。
           8代藩主直寛は、嘉永三年(1850)に城主格を与えられ、陣屋を拡張した。これ以降、広瀬陣屋は
          広瀬城と呼ぶのが正しいと思われるが、一般的には最後まで陣屋で徹されている。

          
       <手記>
           広瀬小学校背後の、社会福祉協議会周辺が陣屋跡とされています。現在、社会福祉センター前
          に石碑と石垣跡があり、唯一の遺構とされています。陣屋跡から東に降ったJA前の交差点付近が
          大手とされ、近年まで堀が残っていたそうです。そう考えると、陣屋としてはかなり広い規模をもって
          いたことが分かり、幕末に城主格に昇格してから、一応「城」としての体裁を整えられたものとみられ
          ます。
           対岸には、戦国大名尼子氏の居城として名高い月山富田城址の月山が聳えており、その頃から
          町の連続性を感じさせますが、上述の通り広瀬の町は陣屋建設前に一度壊滅しており、現在の町
          の中心部は、月山富田城時代には飯梨川の河底でした。

           
 陣屋跡石碑。
陣屋の石垣跡。 
 大手付近のようす。
 奥の3階建の建物の裏手に陣屋がありました。
大手前の堀跡付近。 
水路は堀とは関係ないようです。 


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